万葉集講座 
第3回 岡野弘彦さん

大伴家の文学伝統

岡野弘彦さんの

プロフィール

この講座について

歌人・岡野弘彦さんは、万葉集講座を始めると決めたとき、学校長の河野がまっ先に講師としてお越しいただきたいと切望した先生。その思いが結実した授業でした。大伴家持の歌に心揺さぶられたご自身の気持ちを込めた深い声で、選ばれた七首の歌を解説して、美しく読み上げられました。歌はとにかく声に出して、しらべを味わうのが良いと何度もおっしゃったのが印象的でした。「五七五七七という、古くて新しい定形を、身から離すことができない」と語る岡野先生の講義をお楽しみください。

講義ノート

まず名乗りをいたしましょう。岡野弘彦といいます。今年九十六歳であります。先日、京都の梅原猛さんが亡くなられました。梅原さんは私よりふたつ若いです。ご生前は、いろんな学会で、あるいは『万葉集』に関する会議とかで梅原さんと話していると、目の前にちょっと色のくすんだ虹がかかるような、そんな感じがして話が楽しい。こっちもつい調子が出て話をすると、梅原さんが「岡野さん、それは、ちょっと違うんじゃない?」とか言ったりして、そこでまた二人で論争したり、楽しい話し相手をお互いに任じ合っていたわけです。

そういう友人に私は割合恵まれておりまして、ご承知の方もおありでしょうが、短歌を作りますけれども、それは一人での孤独な仕事であります。ところが共同制作、つまり連句というのは大体三人か四人、気持ちの合った仲間同士で巻いていく、連作の形ですね。これをもっぱら盛んにしたのは芭蕉でありますが、幸いに丸谷才一さんと大岡信さんと――丸谷さんは小説家、大岡さんは詩人で、私は歌人です。大岡さんは教師の息子、丸谷さんは医者の息子、私は神主の息子。それぞれ生まれた所も育った所も違い、専門も微妙に違っているわけですが――この三人は非常に息が合いまして、連句をやるのは楽しかった。でも、二人とも私より若いのに勝手に、「お先へ」とも言わないで、すたこら向こうへ行っておしまいになりました。寂しい、取り残された私はまた、俳人の長谷川櫂さんと、それから小説家というより評論家・研究家の三浦雅士さんと、この十年ほど、また連句を続けております。大きく言えば文学ですけれども、微妙に専門を違えた三人が、育ち方も、出た学校も違っている三人が、一座に集まって三十六句の連句を順番に仕上げていく。これは芭蕉一門が非常に豊かな実りを示してくれているわけで、そういう文学の作品は、日本の長い詩の伝統の中に輝かしい成果を示しているわけです。

われわれの祖先たちは、短い、短歌という詩の形を作った。そして、『万葉集』が、『古今集』が、『新古今集』が出来上がっていった。ヨーロッパの国々の人たちが少しそういう文学を研究してみると、日本人というのは素晴らしい民族だ、日本人は羨ましいじゃないか、という気持ちになられる方が多いようですが、それは自然のことだと思っていいですね。

若い方は、最近のヨーロッパの文学に心を惹かれておられると思うんです。しかし、本当はヨーロッパの人たちも羨ましがるほど、われわれの祖先の残していった文学遺産は、それぞれの時代によって多様性がある。『万葉集』ひとつ取り上げてみても、古代の個人の集団があれだけ素晴らしい作品を残していってくれた。古代だけではなくて、それぞれの日本の各時代に散らばって、その時代の特色を持った文学の様式、そして内容を示している。現代の人々の作り上げていく詩、小説、戯曲だとかを熱心にお読みになる一方で、――もちろんそれぞれの時代の中国、あるいはヨーロッパの文学も、その中に大きな力を与えてくれるけれども――それを生み出してきた、われわれの祖先たち、近い祖先、遠い祖先の生き方、文学に対する情熱の注ぎ方というものを、自分の心に吸収してごらんになる、そして自分たちの時代の文学を生み出していく、そういうことが大事だと思うんですね。その国の文化というものは、そういう形で生み出されていくものだろうと思います。

今日はそんなふうに、主として『万葉集』の時代の男女の歌人たちが残していってくれた作品の中の、今でもわれわれが読んで、そして言葉の時代の違いというものを少しの努力で乗り越えれば、いつの時代も変わらない人間の喜びや、悲しみや、嘆きや、深い感動というふうなものが言葉によって蘇ってくるものを読んで、それが、われわれの心を現代の刺激とはまた違った形で非常に深く豊かにしてくれることに喜びを感じていただければ一番いいわけです。それはみなさん一人一人の心の営みが一番大事なわけですけども、まあ多少、年寄りの体験のようなものをお話しいたしまして、参考にしていただければと思います。

 『万葉集』の一番優れた作品の出た頃、優れた歌人たちのいた頃の話をすることにいたします。具体的には、奈良時代の短歌、『万葉集』の歌がそのテキストになりますね。

折口先生のこと

私は大学を出て間もなく、少し早めに先生から実際の講義をやってみろと言われて、教壇に立ちました。折口信夫先生は非常に細かいところまで気のつく先生で、「一人の学生に目を留め過ぎてはいかんよ」と、いろんな注意をしてくれました。実は、講義の前の晩には、「明日講義することを、まず君に講義するからノートを取りなさい」「大体これで時間十分だと思うよ。でも、もしちょっと余っても、何か変な自分勝手なことを言うんじゃないよ。必ずボロが出るから」……そういう注意までしてくださいました。「同じ場所に目を留めてはいかんよ。それができなくなったら、後ろの壁見て……」、そんなことまで言ってくれる先生でした。

それからね、本当にびっくりしたのは――僕、三重県の小さな山奥の村の神主の長男なんです。父親がどうしても大事なお祭りのときには帰ってこいと言うわけです。國學院というのは神主さんの多い学校ですから、そういうのはスラッと通るわけで、「うちの大事な大祭ですから、ちょっと父親を手伝いに帰ってきます」「ああ、どうぞ、どうぞ」。先生も「行っておいで」と言って、二、三日、暇をくださるわけです。はじめの頃、帰ってきて、教務で「休ませてもらってすみませんでした」と言ったら、「いえいえ。折口先生が来られて、『岡野の代講をするから』と講義をちゃんとしてくださいましたよ」と言われました。先生、僕には言わないんですよ。僕が帰ってきて、「帰ってまいりました」と挨拶したときも、澄ました顔しているんです。どこの大学でも、弟子が先生の代講をすることはあるわけですが、先生のほうが僕みたいな若造の代講をしてくださるというのは、ちょっと例がないと思うんですね。そして、「君のクラス、話しにくいねえ。なんか前の列に、えらい年を取った人が三、四人並んでいて、ノート取れないんだね、あの人は。だから、じーっと顔を見つめて、目を離さないで聞いてるんだけど、おそらく何もわかってないんだろうな。ああいうところで講義をするのは大変だね」。神道研修部というのは、神主さんになるためのコースなので、お相撲の行司さんを引退した人が資格を取りに来たりして、半年か一年ぐらいで神主さんの資格を取っていくわけです。「あの研修なんかは、もう少し年寄りを先生にしといたほうがいいんだな。君なんか若い者には、ちょっとかわいそうだね」とか言ってくださるわけです。それで、教務に行ってその話をすると、「折口先生が君の代わりをしてくださるなんて、うーん、すごいね、それは」とか言って教務のほうでも感心するわけです。そういう先生でした。本当に温かい、お年を召してからも、若い者の心をよくわかっていてくださる先生でした。まあ、それだから文学が生まれるわけですね。

短歌というものは、そういう感情を一番大事にする文学。小説のような散文の文学よりも形が短くて、その代わり、その一首でズバリと人の胸に響くような、そういう内容が詠われていないと……まあ、この頃は短歌の内容もずいぶん変わりましたけれどね。事柄だけを詠うようになったり、あるいはちょっと凝った美的な意識を詠うようになったり、変わってまいりましたけれども。『万葉集』は短歌の古い形ですけれども、心というものが、われわれの心にそのまま響いてくる。長い歳月を隔てて、この言葉で、この調べで、この定型で詠われると、われわれの心に本当に響いてくる。そういう日本の伝統文学であるわけです。その代わり、ちょっと軽んじて心を許してしまうと、メタメタな作品を生むことになるわけで、そこが短歌の難しさでもあるわけです。下手な短歌というのは、なんかカスカスで、何を言っているのか、いくら考えてもわからないこともしばしばありますが、それは読者が悪いというだけではなくて、作者のほうが見当違いしていることもしばしばある文学でもあります。

でも、『万葉集』の時代は、割合に短歌が日本人の心を表現するのに、心と言葉、あるいは調べというものが日本人によく合っていたんでしょうか、ふさわしい働きをしてくれた時代でもあるわけです。古いからとか、新しいからというふうなことは――これも大事な要素ですけれども――二の次、三の次であって、まず深い感動が本当に伝わってくるかどうかということだろうと思います。

大伴家の伝統

具体的に、歌に入ってお話ししてみようと思います。主として大伴家という古代の武門の家です。武士(もののふ)の家の伝統。武士の家というと、男性ばっかりだと早合点なさる方もあるかもしれないけれども、とんでもない。大体日本の言葉の古典の中に出てくる一番古いのは、〈あなにやしえをとめを〉〈あなにやしえをとこを〉、男性と女性のこの世ではじめの神の問答から始まっているわけでして、古典の中の最初に出てくる言葉ですけれどもね、あの言葉は大事な言葉です。

〈あなにやしえをとこを〉
〈あなにやしえをとめを〉

男性が先に言った形、自分が先に言った形、いずれもありますけれども、その最初の言葉というのは結局、われわれの深い感動の表現の、原形みたいな形であるわけですね。「ああ、素晴らしい女性だな」「ああ、素晴らしい男性だな」という言葉、これを交わし合ってこの世が始まっていくわけで、そういう単純な日本の古典の始まり。外国の大事な書物も〈始めに言葉ありき〉というふうに、言葉が非常に大きなものであることがわかりますけれど、日本のほうは、よりそこが具体的です。〈あなにやしえとこを〉〈あなにやしえをとめを〉。ああ、素晴らしい男よ、素晴らしい女よという単純率直な感動の、愛と尊敬の言葉です。そういう古代の言葉からだんだんと、われわれが見てもこまやかで磨かれた形が、短歌の形として凝縮せられていくわけです。

実際の作品を挙げていきましょう。昔、大伴氏の文学をテーマにした『歌と門の盾』という題の小説がありました(高木卓著)。いい題ですね。まさしく大伴氏というのは、古代の宮廷に仕えている部族の中で、歌と門の盾なんです。宮廷の一番大事な応天門は、大伴門でもあり、大伴氏が自分たちの命運をかけて警備している大事な門です。それが都の一番大事な御殿の真正面に立って、外から窺おうとする禍々しいものを防ぎ、内から逃れ出ていこうとする善きものを守っていたわけです。朝堂の南面の正門、それが応天門であり、同時に少し言い方を換えて大伴門と通称していた門です。

大伴氏は、古代の宮廷を警護し、宮廷の伝統を守ってゆく家で、大伴と佐伯(武門の代表的な家)の二つを比べると、大伴のほうが主で、佐伯氏はそれに次ぐ家です。その大伴という家に代々、男性にも女性にも優れた歌人が出た。それが、こうして歌集に残っているわけです。どういうわけかというと、これはみなさんご承知のことですが、言葉というものは、やはり力なんです。力ある言葉を持って、外から様子を窺ってくる悪しき力というか禍々しい力を払いのけ、圧伏する、そういう力の凝縮した形。いつの時代もやはり、守るべきものをきちんと守る力というのは、その国の生命力の大事な部分であるわけで、家々にしても、そういう守るべきものがあるわけです。そして、その代表が大伴氏。それから大伴氏に従って、そういうときに力を発揮する佐伯氏という家であるわけです。その大伴氏の家に、『万葉集』に残っている優れた作者が、男性にも女性にもたくさんいるわけです。

資料としてプリントしてもらったのはサンプルで、今日これだけの歌を引用するというのではなくて、この何倍か引用いたしますから、どうぞ耳に刻んで、心に刻んでください。一番大事なのは、歌は丸ごと覚えちゃうということです。活字の本を見ることはいつでもできるけれど、活字の本に「調べ」はない。それに調べを与えるためには、やはりあなた方の心の中でその歌を暗記して、折につけ時につけて口に唱えてみる、気持ちのいいときには歌ってみることです。まずプリントから見ましょう。

はじめは藤原久須麻呂に大伴家持が贈った歌。家持の代表作七首と言ってもいいわけですが。「藤原朝臣久須麻呂(ふじわらあそみくずまろ)に贈った歌」。大伴氏は古代の大きな豪族の代表的な家ですから、宮廷に仕えている貴族の家の人たちといろんな交渉があるわけです。そうした交渉がわれわれの目に触れやすい形で残ってくるのは――もちろん詳しい歴史の書物には残りますけれども――端的にその思いのほどが刻まれていくのは、こういう短い短歌の形、抒情詩の形。それが『万葉集』のように、緻密な編集方法によって集約せられて後世に残っているわけです。いずれも『万葉集』の中の歌です。まず、読み方です。

藤原朝臣久須麻呂に贈った歌
情(こころ)ぐく思ほゆるかも。春霞たなびく時に、言(こと)の通へば
                      (万葉集巻四、七八九)

心の解け合うものが増えていった

僕は山の中の一軒家の長男として生まれたものですから、小学校の頃から周りは大人ばっかり。神主の家で、何人か母を助けてくれる女性たち、あるいは家の薪割りだとか掃除だとかをしてくれる男衆たちがいましたけれども、子どもはそういう人と大事な心の中のことを語り合うことはないものです。小学校に行く前、あるいは小学校へ行ってからも、なんか僕は孤独な、一人でものを考えてばかりいる子どもだったと思います。そのうちに親が東京の書店から子どものための本をどんどん取り寄せてくれて、文字が読めるようになってからは本当に眼の先が明るく広く開けたような感じがして、本ばかり読んでいました。いつもつまらなそうに一人遊びしてるからと、あるとき村から猫の子をもらってきてくれたんですけど、猫というのは触れば触るほど神経質になって、しまいに爪で顔を引っかいたりするので、僕は傷だらけになって、親が「ああ、猫は失敗だった」とやっと気がついて、そのうちに犬ころをもらってきてくれて、これは性に合うんですね。犬は猫族よりもずっと人間に親しい生き物で、ちょっと耳を引っ張ったり、しっぽを引っ張ったりしていじめてみても、ご主人様のお子様だからということでしょうか、非常に優しく接してくれる。そのうちに本当にいい友達になっていけるので、だんだんと心の解け合うものが増えていったわけですけれども、そういう中で、だんだんとちょっと背伸びをして読むようになっていきました。

私の子どもの頃は、文字が読めるか読めないかのあいだに親たちが百人一首をやるものですから、そのおもしろさに引き込まれて、〈恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか〉、なんてチンプンカンプンなんだけども、なんか良さそうだぞと思って暗記していく。そのうちに自分の取り札として得意になってしまうから、絶対に人に取らせないように囲ったりする。そんなことでだんだんと日本の古典の和歌に引き込まれていきました。今どれほどの子どもが取っているのかわかりませんが、歌がるたというのは、日本の文化伝統を伝えるのに非常に大事なものなんですね。あの平仮名ばかりの取り札と、絵と漢字も入っている読み札との二種類の札、今でも私にとっては非常に魅力あるものとして残っています。

歌を詠むという生涯の営み

短歌を作るのは非常に難しいことのように思っておられる方がありますけれど、私は自分を、古典の研究者よりも前に、日本の短歌の作者だと思っていますから、いつでも作ることを大事に考えて、お風呂に入って三十分ぐらいは、とにかく短歌を作ることに心を集中して、大体十首から十五首作って風呂を出るわけですけれども、大体それで歌の大事な部分はできてしまう。発表するため少々推敲を重ねますけれども。お風呂に入っている時間というのは、こんな年寄りでもいくらか体がしゃんとしている感覚の新しいときでして、そういう時間に心を集中して、五・七・五の形を生み出すことが、歌を本気で作りだしてから現在までの、私の生涯の営みだと思っていいと思います。もう九十半ばのジジイだから、作った歌なんかもヨボヨボしているなんて自分では決して思っていない。シャンとしていると思っています。もう八冊、歌集を出しましたから、これ以上あまり歌集を出すのを重ねるのはと思って、残してはありますけれども、そう簡単に活字にしようとは思っていません。

昔の人は、もっと生活の中で生きた形で作っていました。『万葉集』の時代は、まさしくそうです。「相聞」という、歌をやり取りする形は、恋愛的な感じを伝え合う意味が大きいですが、相聞往来というやりとりは、季節の挨拶、病気のときの見舞い、いろんなやりとり、一番大事な言葉の交わし合いを、和歌の形でやっていたわけです。今はそういう社会を再現しようと思っても無理ですけれど、当時はそういう生活が現実にあった。それは人間同士だけではなくて、神と人間、あるいは魔物のような、ときに災いを与える霊的なものとのやりとりもありました。あるいは戦いの……そう、戦争なんか、私も少し参加したわけですが、幸いに運がよくて、特攻隊要員ではあったけれども、出発しろというところまでは命じられなかったから、こうして生き残っているわけですけど、あの頃は本当に、言葉を真剣にやりとりしていた時代ですね。その中でもとくに短歌の詠める者は短歌の形で、自分の心を親に言い残したり、友達同士で励まし合ったりした時代です。今でも私は、一緒に戦った、熱い言葉を交わして誓い合った友人で、とくに仲のよかった埼玉県出身の友人の写真と、最後の歌の収められている写真に会いに鹿児島の知覧に行きますけれど、そういうグループがあの頃はいくつもあったわけです。そして、そういう思いを短歌に凝縮させていった。短歌はああいう若者たちのひたすらな思いの表現の具になっていった。戦争が終わったのち、やがて第二芸術論なんかが起こると、「第二芸術、あるいは第二芸術にも値しない、不完全な短い定型詩」というふうな言い方をされました。そういう言い方で新しい文学を生み出そうとする情熱もわからないことはない。片方でそういうことへの共感を感じながら、でも、私は短歌定型を手放すことをしなかった。

そのうちに、釈迢空、折口信夫先生が、「うちへ来ないか」と言ってくださって、内弟子になって、明けても暮れても短歌を下選びする、あるいは先生が手帳に書いておられる短歌を清書して、原稿用紙に書いて先生の机の上に置いておく、先生がまたそれを推敲する……ということばかり。あの頃、先生は二つの新聞の投稿歌の選者になっていました。その頃の新聞の投稿歌は量が非常にたくさんありましたから、朝から晩まで下選びが大変だった。それだけに、自然に多くの短歌に触れて、いい短歌、いい作品、一番大事なところの書けている作品を、多少見分けられるようになった。それと共に、短歌への情熱がいよいよ深まっていったわけですけれども、これは私にとって思いがけない幸福だったと思います。なかなかそういう特殊な状態に身を置かれるというのは難しい世の中でね。いろんな、あなた方の心を捉える魅力ある作品の形があり、様式があり、優れた作家たちがいるわけですから。けれども、短歌というのは、あのとおりの短い形でもありますから、ちょっとした心構えで、自分の生活の中に「短歌を集中して作る時間」というものを持っていかれることは、そんなに困難なことではないと、僕は自分の体験でそう思います。ただ、散文の一行とはやっぱり性質が違いますから、一首の短歌を、その短歌を詠めば他者の心がある感動を受け止めてくれるという作品を詠むためには、やはり、ある凝縮力、集中力、そして、何度も何度も読み返し、口ずさみ、調べを整え、言葉を充実させという、そういう心が要るだけのことです。そんなに複雑なことでもないし、時間のかかることでもない。電車に乗っていても、散歩のために道を歩いていても、ときには友人と雑談していても、そういう感覚は働かそうと思えば働くわけでして、そういうところが短歌が気軽に日本人の生活の中に入ってきた理由であり、同時にある意味では、長い散文で表現したり、行数を重ねた詩で表現したりするよりも困難な条件になっているだろうと思います。とにかく、『万葉集』の時代の人々も、こんな形のいい歌を作ったんですから、僕たちにできないはずはない。僕たちの日本語がそれに適していない、などと簡単に言えるものではないと思います。

天平勝宝二年三月一日の暮(ゆうべ)に、春の苑の桃李の花を眺めて作った二首
春の苑(その)。紅(くれなゐ)にほふ桃の花。下照る道に、出で立つ娘子(をとめ)
                      (万葉集巻十九、四一三九)

これ、句切れがいいでしょう? 下の句でスーッと情景と感情が深まって、一句、二句で周りの情景がふわっと包容的に取り込まれていて、そして、〈下照る道に出で立つ娘子〉。三番目は歯切れがいいですね。

わが園(その)の李(すもも)の花か、庭に落(ち)る。斑雪(はだれ)のいまだ残りたるかも
                      (万葉集巻十九、四一四〇)

〈わが園〉というのは「わが家の庭園」ですけれども、まあ「わが屋敷内の」ぐらいに見ておいていいです。李の花だろうか、あの白く見えているのは。それとも、〈庭に落る斑雪のいまだ残りたるかも〉、庭になお、あちこちにひと塊ずつ消え残っている斑雪(まだらに消え残った残雪)、消え始めているけれど、まだ完全には消えないで残っている、その斑雪の白さだろうか。これは決定的に詠わないで、疑問のままで言ってるところが余情を残しています。〈わが園の李の花か〉。すっきりと、まず出だしで言うわけです。それとも庭に雪がまだ残っている白さだろうか。これは一番、二番と違った感じの、思いの残してある歌ですね。疑問の〈いまだ残りたるかも〉という余情の残っている歌です。家持という人の、心の繊細さがわかる歌ですね。それから四番目。

遥かに江をさかのぼる船人の唄を聞いた歌。射水河は富山県の西部を流れる川。当時は庄川と合した巨流であった。

朝床に聞けば遥(はる)けし。射水河(いみづがは)朝漕ぎしつつ唄ふ船人

                      (万葉集巻十九、四一五〇)

〈朝床に聞けば遥けし〉……もちろん点・丸なんか打たないで書いたに違いないんです。ですから、それを活字化した本でも、古い本は点・丸はついていません。ですが、声に出して歌うときには当然、〈朝床に聞けば遥けし〉〈射水河朝漕ぎしつつ〉、ここでちょっと間があっていいですね、〈唄ふ船人〉。朝、目覚めの床でふっと、その日の最初の目覚めを体験する。その朝床でじっと耳を澄ましていると、遥かな感じがする。遥かなところからわが耳に届いてくる音がある。非常に瞑想的な感じで表現されていますね。そして〈射水河〉。これは越中の国府のそばを流れている川ですが、〈射水河朝漕ぎしつつ〉、朝早く船を漕いで船を出す、一日の活動の始まりの気配ですね。〈朝漕ぎしつつ唄ふ船人〉、船唄を唄って川を上り、あるいは下りしていく船人たちの唄声が聞こえてくる。それが〈朝床に聞けば遥けし〉なんです。何でもないようですけども、深みのある言葉です。単純に言っているけれど、余計な言葉はほとんどない。朝、ふっと床の中で目が覚めた。聞こえてくる音に耳を澄ませていると、なんとも言えず心が遥かな世界にいざなわれていくような感じがする。このとき越中守(越中の地方長官)になっている家持、その国府の館の近くを流れている射水河、そこを朝、船を漕ぎ出して唄っている船人の船唄が聞こえてくる。さわやかで、妙に心のかすかな感じでありながら、しかも鮮明ですね。

短歌というのは、やっぱり活字だけで読んで済ませていると、三分の一ぐらいしか心に響いてこない。声に出して……出勤の電車の中なんかでこういうのを大声で歌ったりしたら困りますけど、一人で自分の朝ふっと目が覚めた、その新鮮な気持ちの中で、〈朝床に聞けば遥けし〉、ここで切れますね。〈射水河朝漕ぎしつつ唄ふ船人〉。都から地方長官として派遣せられて来ている、若くて使命感に富んでいる地方長官・大伴家持、その人の心にこういう思いがふーっと朝早く床の中で湧き出してきているわけですね。射水河という、この川の固有名詞までが働いているような感じがします。こんな昔の歌なのに、なんと新鮮にわれわれの心に伝わってくることかと思いますね。

うらがなし

その次は「天平勝宝五年二月二十三日、興に依って作った歌」。ふっと心に感興が湧き起ってきて作った歌。

天平勝宝五年二月二十三日、興に依って作った歌
春の野に霞たなびき、うらがなし。この夕かげに鶯(うぐひす)鳴くも
                   (万葉集巻十九、四二九〇)

これより前にも鶯の歌はありますけれど、これからのち数限りなく短歌にも俳句にも鶯は詠まれていきます。そういう類の歌の中で、古典を少し広く読んだ者の心にふっと浮かんでくるのが、この歌ですね。〈春の野に霞たなびきうらがなし〉。〈たなびき〉の「たな」は「完全に」というふうな言葉です。春霞は濃密な雲とは違いますから、絹のとばりのような、ふわーっと柔らかな、春の野を包んでいく霞ですが、その春の野に〈霞たなびき〉、あたり一面に春霞がかかっている。「棚をかけたみたいに」なんて訳したら0点です。春の広野あたり一面に春霞がかかって。〈うらがなし〉の「うら」は「心」ですね。何とも言えず、わが心は悲しい。これはそんなに突き詰めた、あのとき失敗したのが悲しいとか、自分の子どもが亡くなったのが悲しいとかではない。わが心は悲しい。この天地の悲しみ、あるいは人間が持つ大きな、すべての人が持つ悲しみ、そんなものを考えればいいです。〈この夕かげに鶯鳴くも〉、この夕方の光の中に鶯が鳴くことよ。〈うらがなし〉は説明しろというと難しいけれども、前後の情景の捉え方がよくわかってくれば、〈霞たなびきうらがなし〉というのはわかりますね。差し迫った悲劇的な心ではない。しかし、説明のしにくいような深い奥行きのある心の悲しみが胸に広がってくる。夕暮れの光の中で鶯が鳴いていることよ。鶯の声というのは、これからのちもいろんな形で詠われていくのですが、とくに中世から近世あたりになると、派手な芸謡、三味線歌やなんかに鶯がよく詠われますが、そういうのと、この家持の歌は格調が違います。鶯の声をこんなふうに感じる、家持の感覚が冴えています。格が大きくて、柄が大きくて、こちらの心が包まれて説得せられていくような、そんな感じの歌ですね。現在のわれわれの作る歌でこれだけの大きな格調のある歌は、なかなかないです。われわれも細切れみたいに歌っちゃう。なんとなく時代が小さくなり、人間も小さくなりしているのかなという感じが、歌を作っているから一層切実に私なんかは感じるわけです。

家持という人は、こういう繊細で深い感動を、深く実感できる人でした。だから、言葉にそれを移すことができる。言葉にしたものが深い内容と調べとを持っている。歌の調べというものがまた、もうひとつ、われわれがうっかりすると忘れがちになる条件なんですね。歌には調べがある。日常会話の言葉とは全然違った調べがある。その調べを生かして詠むことが大事です。だから、歌は声に出して読まれることです。声に出して読むのは初心者だとか、黙読するのが専門家だとか、そんな感覚も必要なときはありますよ。でも、できたらやっぱり声に出して読む習慣をまずつけてごらんになることです。その上で短歌を、いいと思われるのも、あるいは批判なさるのもいいけれども、やっぱり単なる活字の言葉だけではないのですからね。

次は、「族(やから)に諭す長歌の反歌」。長歌の最後に短歌形式の歌が一首ないしは複数、二首、三首つくこともあります。長いテーマを長歌に詠っていって、最後に短歌の形で一首あるいは二首つける、それが「反歌」ですね。「族」というのは、ウカラ、ヤカラと同じことです。当時の人の心の中では微妙な違いがあったかもしれないけど、われわれは、ウカラ、ヤカラ、一族と考えて、そんなに大きな違いはありません。一族の者に諭す歌。大伴家持という人は、氏の長者、宮廷のご門を守る。そして宮廷全体を守る武門の大伴氏のトップですから、「族に諭す長歌の反歌」。この前に長歌があるわけですが、その最後に一首ないし二首、三首の場合もありますけれども、一首が一番多いです。

族に諭す長歌の反歌
剣刀(つるぎたち)いよよ研ぐべし。古(いにしへ)ゆ清(さや)けく負ひて、来にしその名ぞ
                      (万葉集巻二十、四四六七)

「老舌(ろうぜつ)よよむ」と言いますけれど、『万葉集』の頃から「老舌よよむ」という言葉があるんです。年を取ってくると舌がもつれちゃうんです。悲しいことに。僕も三十代、四十代なら朗々と歌えましたけども、残念ながら、もう九十半ばではダメでございます(笑)。でも、調べはいいでしょう? 凛としてましょう? 

〈剣刀いよよ研ぐべし〉。大伴氏というのはそういう武門の家。宮廷で警護のトップの家です。そして〈古ゆ〉、遠い古から、〈清けく負ひて〉、すがすがしく、わが家の家の誉れとして負い持って、〈来にしその名ぞ〉、現在に至っている、その名前であるぞ。

宮廷を守る者――大伴・佐伯と続けて言うことが多いです。佐伯は同じような部族ですが、大伴氏よりもちょっと格下の武門の家です。その大伴氏の一族の長である家持。自ずから文人としての心構えとは違った心構えがあるわけです。それが〈剣刀いよよ研ぐべし〉。もう説明要りませんね。爽やかな感じ、そして、ギラリと光る名刀のような感じが受けられるわけです。そして、そこで二句切れで、〈古ゆ清けく負ひて来にしその名ぞ〉。「大伴の家の者たちは、剣刀をこそ、いよいよ研ぐべきである。遠い昔からわが一族の名前としてすがすがしく負い持ってきた、その名前であるぞ、わが大伴の一族の者たちよ」と、大伴氏の族長として一同の心を奮い立たせる歌、その使命感をはっきり示している歌ですね。

家持という人は優しいばかりの人ではない。恋してるばかりの人ではない。こういうところがひとつ、真ん中に筋がシャンと通っている。父の旅人(たびと)よりも、そういう点では一層すがすがしいですね。旅人もなかなか教養のある人で、漢詩も盛んに作った人ですが、お酒が好きで……やっぱり僕は家持、息子のほうが好きですね。一緒に何かするならば、あるいは一緒に旅をするならば、こんな人と一緒に旅してみたいと思う、そういう人です。

巻の二十。このナンバーの打ち方も、一通りではないのです。本によってナンバーの打ち方が違います。巻の二十の四四六七という本もある。でも、たまたま私の持ってきた本では、四四六九番になっています。つまり、長歌にくっついた反歌が四四六七番です。その前の長歌ともう一首あって、そしてこの歌になるんですが、こういうときですから、声に出して読みたい感じがします。もちろんこれを家持さんが読んだら朗々と、聞いているだけで心が奮い立ってくるような読み方をしてくれただろうと思います。どうぞそう思って、この枯れ声を聞いてください。

族を喩す歌一首合わせて短歌 久かたの天(あま)の戸開き高千穂の岳(たけ)に天降(あも)りし皇祖(すめろき)の神の御代より梔弓(はじゆみ)を手(た)握り持たし真鹿児矢(まかごや)を手挟(たばさ)み添へて大久米の丈夫(ますら)健男(たけを)を先に立て靫(ゆき)取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国覓(ま)ぎしつつちはやぶる神を言(こと)向け服従(まつろ)はぬ人をも和(やは)し掃き清め仕へまつりて蜻蛉島(あきづしま)大和の国の橿原(かしはら)の畝傍(うねび)の宮に宮柱太(ふと)知り立てて天(あめ)の下知らしめしける皇祖(すめろき)の天(あま)の日嗣(ひつぎ)と次第(つぎて)来(く)る君の御代御代隠さはぬ赤き心を皇辺(すめらべ)に極め尽して仕へくる祖(おや)の職(つかさ)と事立(ことだ)てて授け賜へる子孫(うみのこ)のいや継ぎ継ぎに見る人の語り継ぎてて聞く人の鑑(かがみ)にせむを惜(あたら)しき清きその名ぞ凡(おほ)ろかに心思ひて虚言(むなごと)も祖(おや)の名絶つな大伴の氏(うぢ)と名に負へる丈夫(ますらを)の伴(とも)

大久米というのは久米氏です。久米氏も古代からの宮廷警護の武門の家です。大久米の大は美称です。〈大久米の丈夫(ますら)健男(たけお)〉、丈夫というのは心も身も健全で雄々しい、勇ましい男たちということです。戦争中、僕らはしきりに、「おまえたちは丈夫である。丈夫健男である」と言われた。そして、特攻隊に発っていきました。悲しい言葉でもあります。でも、この頃はまだそういう悲しさはあまり伴っていない。もっと素直な、いい言葉です。〈大久米の丈夫健男を先に立て靫(ゆき)取り負ほせ〉、靫というのは矢を入れてある矢壷です。背中に靫を取り負い、〈靫取り負ほせ山川を岩根さくみて〉、岩や根を踏み分けて。古い歌の言葉で岩を「岩根」というわけですが、岩に根っこがあるわけではない。盤石の地面から頭を盛り上げてきている、あれを岩根と言った感覚はわかりますね。〈踏み通り〉はその山道を踏み通って。〈国覓(ま)ぎしつつ〉、理想的な住むべき国を求めて。「国覓ぐ」というのは、国を求めるということです。〈ちはやぶる〉は、神の枕詞ですね。〈神を言(こと)向け〉、神を言葉によって自分の意向に従わせ、自分の心にかなうように神の心を変える。神といっても、いい神ばかりが古代からあるわけではありません。悪しき神、禍々しき神は、いっぱいいる。だから、力ある神、本当の清き神というのが大事なわけです。そして、天皇家の祖先はその清き神の代表と考えているわけです。そこに大伴氏以下、豪族たちが武の面、政治の面、そのほかさまざまな役割で仕えている。〈服従(まつろ)はぬ人をも和(やは)し〉、「服従はぬ」というのは、心素直に従わない人々、その心を和らげる。

〈掃き清め仕へまつりて蜻蛉島(あきづしま)大和の国の橿原(かしはら)の畝傍(うねび)の宮に〉、今の橿原神宮のあるあたり、古代の大和宮廷のことです。その〈大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太(ふと)知り立てて天(あめ)の下知らしめしける〉。宮殿の柱をふとぶとと立て並べて、そこに都を置いて、この天の下をお治めあそばした、その〈皇祖(すめろき)の天(あま)の日嗣(ひつぎ)と〉、その天皇(初代は神武天皇、そののちの代々の天皇、天子)の位をお継ぎになる。それは日の神の御子としての資格でお継ぎになる。〈天の日嗣と次第(つぎて)来(く)る君の御代御代〉、絶ゆることなく、次の時代、次の時代と続いていく〈君の御代御代〉、天皇の代々の御代御代。

〈隠さはぬ赤き心を皇辺(すめらべ)に極め尽して〉、隠すことのない、明るく爽やかな心を天皇に〈極め尽して〉、この上もなく忠誠を尽くして、〈仕へくる祖(おや)の職(つかさ)と〉、宮廷に代々お仕え申してきた先祖代々の家の職業、そういう〈祖の職〉、臣下としての親の官位、位、親の地位、〈事立(ことだ)てて授け賜へる子孫(うみのこ)のいや継ぎ継ぎに〉。〈事立てて〉、はっきりと言葉を、力ある言葉を整えて、その使命をお授けあそばした、こういう役割をおまえの家は尽くせと、天子がご命令あそばした、その〈子孫のいや継ぎ継ぎに〉、その使命を子孫代々後世に受け継いで伝えて、〈見る人の語り継ぎてて聞く人の鑑(かがみ)にせむを〉。その状態を見る人がのちのちに言葉を尽くして語り伝え、それを聞いた人が、わが身のあり方の鑑にしようと、〈惜(あたら)しき清きその名ぞ〉。代々伝えてきた新しく清らかな家の名前であるぞ。〈凡(おほ)ろかに心思ひて虚言(むなごと)も祖(おや)の名絶つな〉。いい加減な程度に心に思って、「虚言」、真実のこもっていない、かりそめの言葉だとして、先祖以来の自分の親々の名前を絶てることをするな、と言っている。家々にはそれぞれ宮廷に仕える役割があって、それを誇りとしている。その誇りとしている、親から受け継いできた家の名前、氏の名前、それを途中で絶ってしまうようなこと、打ち切ってしまうようなことはするな、と。

〈大伴の氏(うぢ)と名に負へる丈夫(ますらを)の伴(とも)〉、この大伴という素晴らしい氏……大伴というのは、大きな宮廷のお伴ということです。残念なことに大伴氏は、家持の次の時代あたりから「大」がなくなって「伴」になるんです。当時の政治情勢やいろんな変化があったわけですね。そして、「大伴」という誉れ高き名前が単に「伴」と言われるようになったと思ったら、スーッとこの家は消えていく。滅びていくんです。ですから、家持は大伴氏の最後の栄光を担った人物なんですね。それだけに家持という人は、おそらく晩年は、非常に悲劇的な思いを耐えて生きなければならなかっただろうと思います。そういうことはつぶさには伝わっていないですけど。〈虚言も祖の名絶つな〉、かりそめにもこの誇りある親の名を自分たちの時代で絶やすことをするな。〈大伴の氏と名に負へる〉、代々大伴氏と名前を「誇り」に受け継いできた〈丈夫の伴〉たちよ。丈夫は、直訳すれば、ますます雄々しいという、なんだか無骨一辺倒のようですけれども、この大伴氏の文学を考えても、丈夫の文学というのは心がまっすぐで、誇り高く、そして武勇を愛する、そういう日本伝統の健やかな心なんですね。それが丈夫の心であったわけです。

僕ら戦争中は、そのことを耳にたこができるほど聞かされた。そして、勇ましく特攻隊に志願して行けと言われた。あの戦争は悲劇で終わりましたけれど、こういうことを強調しなきゃならない時代になってきたというのは、やはり時代が危機的なものをすでにはらんでいるということです。「おまえたち、丈夫健男、今こそ特攻機で敵艦にぶち当たれ」なんて言われている時代、その悲劇を、戦争の本当に末期に、いろんな面で体験させられました。そして、戦争が終わってのち、そういう伝統的なものをまた見るも無残に眼前にひっくり返されて、「伝統なんてものに囚われている若者たちは、なんと情けない」とか言われて、そういう時代をじっと我慢して生きてきたといえば生きてきた。泣き言を言ってるのではありません。しかし、本当は心の中で、いつまでも生きて、人間としての命を豊かに終わりたいと思っていた人たちが、たくさん僕たちの時代は死んで行きましたから……。

戦時中、私は最後、霞ヶ浦のあたりの沿岸防備の部隊にいました。霞ヶ浦では、あの頃、大きな帆掛け船で魚を獲っていた。波が穏やかな霞ヶ浦の水面を大きな白帆の船がスーッと緩やかに走っていく。その中で、明日死ぬ覚悟、あさって死ぬ覚悟で、死ぬ訓練をしていたんです。そして最後には、飛ぶ飛行機一機もなくなった鉾田飛行場でグラマンの編隊に襲われて、逃げ場がないわけです。飛行場の真ん中で何人かが死んで、幸いに僕は弾が当たりませんでしたけれども、それでも、その晩ひと晩、死者の魂を衛兵として守って、そして、埋めるわけですね。今から考えると本当に、ちょっと期間がずれていたら死ぬことはなかった人たちだと思います。今でも三年に一度はその跡を訪れて、短歌の形で追悼の歌を私は詠むことにしています。行くと、地方の新聞社から頼まれて講演をさせられたりしますけれども、あそこへ行くと最後の遺書と写真とがみんな遺っているわけです。みな、いい顔をしている。そして、熱い言葉を遺しているんです。僕の一番仲のよかった友達は艦艇にぶち当たって、二階級特進したけれど、おそらくあの頃もうほとんど効果ある戦果をあげることはできなくなっていた。本当に現実には無駄死にのようなもの。あるいは特殊潜航艇なんて、蓋を閉じられたら出ることのできない潜水挺に閉じ込められて出て行った兵隊もいるわけです。もちろん、その人たちの家族は、その魂を今でも祀っていられるでしょうけれど、世間にあまりそれは出ることもなかった。真珠湾攻撃の(特殊潜航艇の)「九軍神」などは大きな形で発表せられましたが、戦争末期の頃のそういう死者たちは、名前は記録せられていますけれど、大きくその戦死の様子を伝えられることはなかった。

それでも、鹿児島の知覧へ行きますと、そういう名残のものがあるわけで、七十年前の思いがまざまざと蘇ってくるわけです。日本の近代史の一番悲劇的な部分ですね。あんな悲しみを僕たちの子孫に体験させたくは絶対にない、そういう思いです。どこか『万葉集』の歌を読んでいると、やっぱり僕は、彼らの魂のことを思わざるをえない。

ですから、この家持のこういう歌は、非常に爽やかで、古代の丈夫のすがすがしさをわれわれに伝えてきますけれど、古代のこの健やかさというものが永遠に続いたわけではない。殊に日本の、あるいは世界の近代、今、非常に物悲しい悲劇的な人間の状態が至るところに起こったということは、やはりずっと心に持ちながら、『万葉集』のこういう歌も心に刻んでおいていただきたいですね。

歌は歌って、舞って、肉体に伴わせて表現して鑑賞する

七首め。天平勝宝九年六月二十三日、大監物三形王(だいけんもつみかたのおおきみ)の宅での宴の歌。三形王というのは、皇族に列する人です。その人の家で宴会があったときに、その宴に列している者、招かれた者が、宴会がたけなわになった頃、順番に自分の作品を朗々と詠み上げる、そういうときの家持の歌です。

天平勝宝九年六月二十三日、大監物三形王の宅での宴の歌
移り行く時見る毎(ごと)に、心いたく昔の人し思ほゆるかも
                 (万葉集巻二十、四四八三)

それだけでスーッと入ってきましょう? 歌というのはやはり調べが大事。なんか調べがゴツゴツしている歌、それから歌で理屈を言っている歌、こういうのは下の下の歌です。その抒情すべきものがこっちの心に伝わってくる。言葉の連ね方が自然で、それを口に出して歌ったときに、ある感動を与える力を持っている、そういうのがいい歌なんです。活字だけで歌を読んでいるのは、非常に平板な歌の鑑賞のし方。本当は歌って、ときに舞って、そして行動に移す。肉体に伴わせて表現する。それが歌の一番いい鑑賞法であるわけです。「ちょっと舞ってごらん」なんて言われると困りますけど。歌うことは私もします。こんなふうにして歌うのか読むのか、読むというよりは少し調べをつけて読みます。

〈移り行く時見る毎に〉、説明要らないですね。時というものは、時代というものは、刻々に移っていくものです。その移っていく人の生きざまの表れた姿、それを見るたびに、〈心いたく〉、心、痛切に、切実に、〈昔の人し思ほゆるかも〉、昔の人のことが思われてくることだな。こういうことが定型詩の中できちんと、しかも感動ある表現で言えることが素晴らしいんです。言われたものを見ていると何でもないようですけれど、自分で初めてこれを創作してごらんなさい。常に創作者の心になって作品を鑑賞してください。そうでないと、非常に安易な読み方をしてしまうことになります。何度も声に出して読んでください。「知識人は声になんか出さない。黙って読むものだ」と思うかもしれません。まあ、黙って読んだほうがいい小説もたくさんあります。でも、歌はやっぱり歌うように読む。〈移り行く時見る毎に、心いたく昔の人し思ほゆるかも〉。枯れ声で読んでも原作がいいから、いくらか感動してくださいますか。

休憩ですか? 歌の話をしていくと僕は時間が消えちゃうんです。昔、学生に講義をしていた頃、よく学生に恨まれました。「先生、休み時間終わっちゃうよ」。

(休憩)

河野:今日は、岡野先生に大学のときに国文学史を教わった上野誠さんもお見えなので、元教え子として今日の授業の感想などを聞いてみましょう。

上野:一言申し上げます。あの味は、私では出せません! ありがとうございました。以上でございます(笑)。

河野:今の答えは何点(笑)? それは冗談として……たくさんの質問をいただきました。みなさん、今日、岡野先生のお話を聞きながら、これだけ歌とか言葉をシャワーのように浴びる時間というのはなかなかなかったと思うんですけど、その中で「自分も何かを作ってみたいけど、どういうことを心がけたらいいだろうか」とか、「私のような初心者は一日一首詠もうと思ってもなかなか思いが浮かばない。どうしたらいいんだろうか」とか、「私のような小心者が大ぶりな大らかな歌を詠えるようになるんだろうか」とか、易しいようで難しい質問が多くの方から来ています。なので、最後ちょっとそういう実践的なお話を伺いたいと思います。毎朝お風呂でたくさんの歌をお作りになっている先生、そういうとき、どういうことから気持ちのスイッチを入れておられるのでしょうか。

岡野:みなさん、私の話を聞いてくださって、いろんな感想をお持ちになったでしょうし、いろんな疑問もお感じになったと思いますが、何よりもまずはやっぱり、ご自分で作ってごらんになることができたら、これはやっぱり楽しいし、張りあいにもなっていく。それから、半年前の自分の歌、あるいは一年前の自分の歌と今と……という比較をなさることもできるだろうと思いますね。昔は、結社がたくさんありましてね。結社の主宰者という人、あるいは先輩たちが具体的に批評をしてくれたし、歌の作り方も具体的な形で教えてくれたものです。先生というよりも先輩たちから学んだことのほうが切実でした。先生は大体は、やっぱり突き抜けている人ですから。だから、斎藤茂吉から聞くよりも、もう少し中堅クラスの人から聞いたほうが実際の役に立つことが多いものでした。僕も釈迢空先生の結社で、先輩から与えられたものが大きかったなと思います。最後にまとめて先生がピシッと批評してくださるんだけれども、それは見事で確かに思い当たることがピシャッと言われているけれども、実際に作るときの細やかな助言は、先輩から受けることが多かった。そういうときに結社というのが大変ありがたい役割を果たしてくれるわけです。殊に初心者である場合はそうですね。

それと、短歌というのは、あまり長く心から離さないことですね。僕は最近は朝、少しお湯をぬるめにしてお風呂に三十分ぐらい入っています。そのあいだに十首ぐらい、調子がいいと二十首ぐらい歌を書きつけていくわけです。それが一人になって歌を作っていく自分に一番、今は合っているなと思います。みなさんもいろんな歌を作るのにいい場というものを持っておられる方もあるだろうし、そうでなくて一人でコツコツと作っておられる方もあるでしょう。僕は一枚百字の短冊型の原稿用紙を特注で作らせて、それに二首ずつ書いているんですけれども、お風呂の中で浮かんで、あとで推敲していくわけです。その推敲がまた楽しいですね。推敲することを面倒がったり、一遍作ったものをひねくるのは、よくなるときもあるけれども、かえって悪くなっちゃうことのほうが多いと考えて推敲するのを厭われる方は、やっぱり本当にいいものを作り続けていくことにならないんじゃないかという気がします。

発表する場を同人誌や結社誌で持っておられる方は非常に恵まれた方ですが、ぽつんと一人で作り続けていかなきゃならない方もあるだろうと思います。そういう方は、今、私がやっているように、自分一人の歌を作っていく場と時間を決めてごらんなさい。

なぜ風呂の中かというと、何でも裸になれば頑張れるというふうなことではない。気持ちがね、朝、新鮮で、そして自分の体に合う風呂の温度の中でふわっと浮かんで重力のないような感じでいると、集中力が増してくるんです、僕の場合は。ですから、お風呂の中が一番いいわけです。それをとにかく一首の形に、五・七・五・七・七の形にして書いて、それをあとでまた時を変え、場を変えて推敲していかれると、長続きするし、割合に効果的だと思います。これは僕がなんとなく一生作り続けてきて、今、「ああ、この形」と思っている形なんです。「そんな一人でお風呂に三十分も浸かっているような贅沢な時間ないわ」とおっしゃる方は、それはそれでまた何か工夫なさればいいと思います。僕だって、若い頃からそんな時間、持てたわけではございませんからね。

結社に入っていると、その結社の主宰者や先輩がいろんな工夫をしてくださったりします。釈迢空、折口信夫という人は、そういうプランを弟子たちに積極的に話してくれる人でした。夏休みとか春休みとかは、鍛錬歌というのを作らせられるんです。毎日ハガキに五首ずつ書いて、一週間、先生のところへ送る。先生は実はそんなもの、整理したり見たりしていないんですけど。「はい、君の今年の夏の鍛錬歌」といって、兄弟子が束ねてきちんと分けたものを先生が返してくれるわけです。それでまた時間を隔て、場を隔てて推敲して、そして、その夏の鍛錬歌、あるいは春休みの鍛錬歌といって結社の特集号を組むわけです。そうすると、前の年よりも今年はちょっと成長したなという感じがするわけです。そういう節目を指導者の先生がつけてくれると、ありがたいですね。

まあ、そんなくらいですね。あとはもう自分で作る。できるだけ単調でない生活をする。定期的にこの季節にはどこを旅するとか。自分の生き生きとした生き方をまず作ることが大事だと思います。人から見たら、「なんか平板なことを毎年繰り返しとる」と思われるかもしれないけど、けっこうそれは変化になるんです。

それから、やっぱり古典を読むこと。古典の歌集だけじゃなくて、古典のエッセイ、あるいは短篇の物語とか。そういうものを読んでいると、パッと刺激を受けて、「ああ、これも歌の題材になる」と気づくことがありますよね。それから、旅をすることでしょうね。やはり旅では非常に新鮮なものに触れていけますから。だけども、もう旅もできない、せいぜいお風呂の中で三十分浸かっているのが関の山だという爺さんが言うんだから、まあ、半分ぐらいに聞いておいてください。

河野:ありがとうございました。最後、私からの感想ですけれど、大伴家持の〈剣刀いよよ研ぐべし〉というのは、もちろん知ってはいたんですけれど、大伴家の最後の頭領である家持が一族の皆に向かって、誇り高く生きよと檄を飛ばしている歌だと単純に意味をとって、それで済ませていました。でも、今日、岡野先生があの長歌をお読みになって、あの言葉を聞いていると、やっぱりそれは本当につまらない理解で、あの言葉から僕の中に湧き起こってくる力を、岡野先生の肉声を通して初めて蘇らせてもらったような気がいたしました。本当にありがとうございました。あの歌をお読みになっている岡野先生自身が、あそこでまたスイッチが入ったんです。あそこからまたペースアップして百二十分いっちゃったという、岡野先生が大伴家持から力をもらっている現場も見たような気がいたします。そういう意味で、ご体調がちょっとお悪い中来ていただいたんですけれども、最後までご講義いただきましてありがとうございました。みなさんもぜひ岡野先生にもう一度拍手を。

岡野:みなさんが一人でも多く、いい歌をこれから長く作り続けていっていただくように僕はお祈りし、お願いします。それが日本文化の中の一番やっぱり大事な生粋のところ、われわれの時代、それからわれわれの次の時代に継続していく一番芯の部分、一番核の部分になっていくのだろうと思います。そう思うから、この古くて新しい定型をやっぱり身から離すことができないのだと思います。今日は静かに聞いてくださってありがとうございました。

受講生の感想

  • まさに心震える授業でした。

  • 岡野先生の唄への純粋な想い、情熱をお聞きできて、私自身も熱い気持ちになり、感想句をつくりました。

    拙くも作り続けることにこそ核心はありと先生は言えり

    先生の熱き言葉を思い出しわが拙き句を超えに出し詠む

  • 大伴家持の歌を読み上げていただき、そのしらべから美しい情景が浮かんできて、歌は活字で読むだけでなく、声に出して感じるものなのだと、先生のおっしゃることが実感できました。(中略)最後に先生から、歌を詠むのに「生き生きとした生活、変化」が必要とのアドバイスがありましたが、私も今できることで良い刺激と変化を作って、自分の思いを歌で表現できるようになりたいです。

  • 新しいものがあふれる世の中、新しいものを生み出すのが良しとされる世の中で、日本のように長い歴史を持つ国にある伝統や昔から伝わるアイデンティティのようなものをこれからどのように取り扱っていけばいいのかという疑問をずっと抱いています。そのひとつの答えのようなものを、今回の講義を通して得られたように思います。大伴家持の「移り行く時みるごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも」という歌が心に残りました。今も昔も、人の悩みの本質は普遍的なものなのかもしれないですね。

  • 岡野先生が一句ごとに注釈を入れながら、繰り返し、何度も吟じてくださるのを聴いているうちに、歌が、脳で理解する感じではなく、体が反応する感じで届いた瞬間がありました。奇妙に実感を持って「知っている」気がしたと言えばいいのか……。思わず「あっ」と声が出そうでした。詩歌をよむということは、こうして一句、一句、舌の上で氷砂糖をゆっくりと溶かすような感じで繰り返し読む、声にして読み上げる、ということなのだと知りました。

  • ジンとしたり、あぁぁと思ったり。これからも、一日のごく一部の時間、その限られた時間で、言葉を大事に歌を詠んでいこうと思いました。

  • 犬についての「心のとけあうものが増え」という言い回し、いつか使ってみたいと思いました。(中略)できるだけ「うた」を詠んでいきたいと思います。この日の授業の一首。

    心へと 心からよむ 和歌(やまとうた)我感じ入る 翁のおもい