万葉集講座 
第2回 上野誠さん

万葉集に出会う

上野誠さんの

プロフィール

この講座について

『万葉集』の最初の歌は、国土統一の英雄である雄略天皇が、若菜を摘む娘たちに「名前を言いなさい」と呼びかける歌です。この時代、名前を尋ねることは求婚を意味しました。天皇が訪ねた先で、土地のものを一緒に食べ、土地の女性とちぎりを交わす。そんな春の喜びを寿ぐ歌からはじまる『万葉集』。上野誠さんの楽しい解説で学んでください。

講義ノート

前回よかったねえ。たまらんかったね。河合祥一郎先生が読む英語の詩のよさと、日本語の訳文のよさとがピターッと合って。あれを聞かなかった人は大損(笑)。

この講座をするとき、「ほぼ日流でいきましょう」って言うんだけど、たとえば、『万葉集』の研究方法でいったら、文献学的な研究とか、さらには、それが表現としてどう成り立っているかの文芸学的研究とかがあるわけ。それで、社会的な背景を知る歴史社会学系の研究があって、さらに、僕はわりとこの系統なんだけれども、民俗学系のアプローチというのがある。こういうものが全部できる人が何をやるかというと、比較研究。『万葉集』の比較文学的研究というのをやる。基本的には中国のものと比較するんやけれども、普通は中国の『文選(もんぜん)』なら『文選』とかと比較するけど、いきなりシェイクスピアですからね。簡単に言うと、逆上がりをこれからなんとかやりたい人に月面宙返りを教えるようなものですから(笑)。結局、逆上がりができないけど、月面宙返りはしたいみたいな感じで、しかも河合先生と掛け合いでやっていくわけよ。

●その時代の語りの中で蘇る歌

最後、「先生、『万葉集』の持っている文学の普遍性は、シェイクスピアの表現と非常に重なり合うじゃないですか。どうしてこんなに重なり合うとお思いですか」と聞いたときに、河合先生が、一瞬僕のほうをチラッと見ながらね、「そんな難しい質問するなよ」みたいな顔で、そのときの間が3秒ぐらいあったと思うんだけど、3秒あってから、「上野さん、歌というものは知性ですから」。歌というものは知性なんだ。つまり、歌というものもひとつの知性の表現の表れなんだというところが、「なるほどな」と。だから、ああ、そういうふうに持ってこなきゃいけないんだなと思いました。と同時に、最初は口立てで教えたじゃないですか。私の顔を見ただけで歌が出てくるでしょ? 

君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我(あ)が立ち嘆く 息と知りませ
(巻15の3580)

ふっと、言うように出てくるでしょ? 口立てでやったからですよ。しかも最初に、「あなたが行く海辺の宿にもし霧が立ったならば、長い、長い旅を続けるあの海辺の宿でもし霧が立ったならば、私が平城京に残って立ち嘆いている息だと思って、私のことを思い出してください」と言った。そのあと、当時は遣新羅使というのがあるんですよ、遣唐使だけじゃないんですよ、という知識が入り、『万葉集』の巻15の前半部分はそれですよ、という知識が入って、それで、この場合の「君」というのは、女性が男性を呼ぶ言い方、と知識が少しずつ入ることによって、歌がだんだん全体的になっていくじゃないですか。

ということは、基本的に古典というのは、その時代その時代、例えば江戸時代だったら江戸時代の先生の語りの中で再生していくものだと思わなきゃいけないんですよ。その人のその再生の方法というのがあるわけです。『源氏物語』なら、角田光代さんだったら角田さんの語りがある。瀬戸内寂聴先生だったら寂聴先生の語りがある。谷崎潤一郎先生だったら谷崎先生の語りがある。その時代その時代のその語りの中で蘇ってゆく。そこに何があるかというと、おそらく「あ、なるほどなあ」というような実感として立ち上がってくるものがあると思うわけです。

みなさん、資料を見てください。たとえば、季節感をどう実感していくか。たとえば、ショーウインドーに水着が飾られるようになると夏が来たと思う。この中で関西生活したことある人、ちょっと手を挙げてください。関西の人はよくわかるんだけど、関東の人はまったくわかんないと思うんですけど、だいたい5月ぐらいになると関西では、冬に主力商品として豚まんを売っている「551」というところが、アイスキャンデーに変わる。「551」の豚まんが「551」のアイスキャンデーに変わる。これがひとつの夏が来たという印。

そのことを踏まえて、〈春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山〉を読むと、季節が変わるというのはどういうことですよっていうことがわかる。今、私たちは一体、何で夏が来たことを感ずるだろう。藤原宮の時代というのは、これは694年から710年までのあいだで、この時代はほとんど持統天皇、文武天皇の時代。そのときには香具山に白い衣が干してあったら夏だよ、と言うことによって、私たちは、その歌を実感していくことができる。さらに、そういう話を聞いたら、もうみなさん、ああ、あの香具山に白い衣が干してあったら、これは夏が来た……みなさん、すぐ奈良に行って、橿原市に行って、あの香具山を見たいと思うでしょ。歩きたくなるじゃない。だから、歩いたりしてそれを実感していく。おそらく、そういうような長い時間をかけて、遊びながら勉強していくのが江戸時代までの古典の学習スタイル。それを、時間内に問題を解かなきゃいけないっていうことになると、「か、き、く、く、け、け」「せ、まる、き、し、しか、まる」になるわけよ。おそらく現代の国語教育について言うといちばん問題なのは、やっぱり実感がないということ。しかもそれは、詩というものをどう実感するかという話やね。詩というものをどういうふうに実感するか。これはもう大変なことなんですね。

●歌と物語

僕は1960年生まれなんですが、僕らの世代といったら、コンパやったらこの歌を歌わなきゃ終わらないっていうのが、河島英五の「酒と泪と男と女」なんですよ。これをせんとコンパが終わらん。実際ライブで聴いたらすごいよ。河島さんが生きてるとき、僕もよく行ってたし、かわいがってもらったけど、もうすごいすごい。この歌のサビの部分、「傍線A、作者はどのような気持ちを表しているのか」「20字以内で書きなさい」とか聞かれたとしたら、「たくさんお酒を飲んで寝た」となる(笑)。ところが、それが、5音句、7音句のバランスを利用しながら作ってあると、われわれの心の中に染みとおっていくものなんですよ。したがって、歌というのは実感していくものだし、もうひとつは、歌というようなものは、常に語りと一体。日本の文学史を考えていく中で、歌と語りが一体というのは、たとえば物語も何から始まるかというと、歌物語から始まるんです。たとえば、『大和物語』『伊勢物語』。『源氏物語』に至っても、ストーリー展開や人物描写はものすごく精密に散文で書いているけれど、最終的にその人が心の中で思っている部分というのは、歌になってくるわけです。

これは何に近いかといったら、オペラのアリア。日本のオペラはカッチリやろうとしてるよね。ところが、たとえばヨーロッパの地方の劇場に行ったら、カッチリなんかやらない。すごくおもしろかったのは、ドイツの小さな町でオペラをやっていて、ソリストがあまりに乗ってワーッと歌ったとき、拍手が鳴りやまないわけ。「もう一度もう一度」ってどうもドイツ語で言ってるみたいなのね。そうすると、もう一回歌う。同じ歌を歌う。指揮者は「しょうがねぇなあ」って顔して振ってるんやけども、そのところの心情というのは、歌っている人の思い入れと、作中人物の思い入れがピターッと一致して、みんながワーッと沸いている。つまり、歌と物語が一体になっている。

『万葉集』なら『万葉集』の中にも物語が入っている。歌の中に物語が入っている。その歌の物語を外に出して解説していくのが僕らの仕事なんです。で、ここから、今日は『万葉集』1番の歌を読もうというわけ。雄略天皇の御製歌にちょっと仮名振ってほしいんやけれども、「ゆうりゃくてんのう」の「おおみうた」と読みたいのよ。巻1の最初の歌です。どういう歌かというと、若菜摘みの歌。天皇が問いかける歌です。知識入れていきますよ。古典の場合、一番最初に何を置くかは非常に重要なことですから、冒頭は、国土統一の英雄である雄略天皇の歌です。おそらく8世紀の人々は、「ああ、雄略天皇か、あの有名なね」というふうに読む。と同時に、雄略天皇は何で有名であったかというと、色好みで有名であった。この色好みというのは、古代の帝王に求められている――実はこれがわからないと古典、近代以前の宮廷文学はわからない。色好みというのは、帝王に求められている徳のひとつです。多くの女性を愛する、多くの女性から愛されるというのは、徳なんです。

これネットで配信されるけども、言うよ。あのね、『源氏物語』も、『万葉集』の天智天皇挽歌群も、『宮廷女官チャングムの誓い』も、みんな同じ。それは何かといったら、帝王は多くの女性を愛するのが徳やから、もうこれは必要なんやと。そうすると、当然、帝王の周りに女の人が集まってくる空間がある。それを何というかというと後宮。後宮社会というのは、実は大変な三角形になっている。何かというと、家柄のいい人、家柄が普通な人、家柄がそうでもない人と、ピラミッド型になっている。家柄のいい人は5人に1人くらいの美人。家柄がふつうの人は50人に1人くらいの美人。その下は500人に1人の美人。家柄がそうでもないのに後宮に入るのは5000人に1人の美人。そうすると、身分が低い人で魅力的な女性がいた場合、一体どうなるかというのが問題になるわけ。これが『源氏物語』です。あの白楽天の『長恨歌』です。これがまさに天智天皇をめぐる女性たちの挽歌の世界です。いつの時代であったか、女御、更衣がたくさんいる中で、身分が低い人ではあったが、天皇のご寵愛を受けている人がいた。ここから物語が始まるわけでしょ? その身分は低いけれども寵愛を受けている人はどういうふうに生きているか、これが最大の関心事なんです。宮廷を取り巻く社会の最大の関心事。

みんなは「雄略天皇は国土統一の英雄で、いろんなところに行ったんだよね」と知っている。いろんなところに行くのは、この時代の天皇の一番の仕事です。「食す」、「おす」と読みます。「食べる」。敬語で「召し上がる」。土地に行ってその土地の食べ物を食べるのが天皇の仕事。もうひとつは、その土地の女性と契りを結ぶ。これも天皇の仕事。そうやって多くの人たちとコミュニケーションをとる。皇位継承儀礼、たとえば大嘗祭でも、天皇陛下が食べることに意味があるというのはこれの名残なんです。つまり、食べることが重要。食国の政(おすくにのまつりごと)というのですが、これは食べること。もうひとつは、多くの女性と契りを結んでいくこと。これが非常に重要なんです。ところが、そこでいろんな物語が生まれてくるから、みんなが関心を持つようになる。ここまで知識が入ってきますね。

●国土統一の英雄・雄略天皇

雄略天皇というのはどういう人かというと、「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天の下治(をさ)めたまひし天皇の代」。「天皇」を「てんのう」と読んでも間違いではないが、ちょっとキザに「すめらみこと」と読みましょう。「代」は、「みよ」と言いましょう。そうするとこれは、「泊瀬朝倉宮で天の下をお治めになった天皇の時代」というふうに『万葉集』にちゃんと書いてあるわけ。それではわからないからというので注記を入れてくれていて、「大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと)」と書いてあって、これは、この天皇は泊瀬の朝倉というところで政治をした天皇の時代の歌で、この天皇は大泊瀬稚武天皇。古代の場合は、天皇の名前を宮で呼ぶという呼び方がある。だから、その泊瀬地域というところの朝倉というところで天下を取ったといったら、「あ、雄略天皇だ」と。たとえば、奈良大学で僕のゼミナールに入ったらどうなるかというと、『万葉集』をとにかくめくらせる。とにかく声に出させるわけ。そうすると、廊下で会ったときに、「泊瀬朝倉宮で」といったら、「あ、雄略天皇ですね」と学生が言うように(笑)。「飛鳥岡本宮(あすかのをかもとみや)で」と言ったら、「あ、斉明天皇でございますか」というふうに学生が言うように、宮の名前と天皇の名前が一致して出るように、万葉を勉強していく初歩の初歩のときに、こういうふうに覚えさせるわけ。

でも、ほぼ日は違います。ほぼ日では、ヘリコプターでエベレストの頂上まで登りますから(笑)。いきなり河合先生と「シェイクスピアと万葉集」ですからね。下からずっと積み上げてはいきません。上からドンと行きます。

「泊瀬朝倉宮に天の下治(をさ)めたまひし天皇」というと、これは漢風諡号(かんふうしごう)といって中国風にいうと雄略天皇だな、とわかる。場所は、奈良県桜井市の朝倉というところ。では、泊瀬朝倉というのはどういうところ? これが、奈良から近鉄電車でずっと南のほうへ行く。すると大きな鳥居が見えてきます。これが大神神社です。その鳥居の向こうに、きれいな稜線の山が出る。本当にきれいな稜線の山。この三輪山の背後に隠れているところが朝倉で、ここに5世紀に宮を営んでいたのが雄略天皇です。

はい、私のほう見て。私の顔見て。あのね、こう考えたら、もうこれから絶対怖いものないから。3世紀段階の卑弥呼と5世紀段階の雄略天皇は、同じ大和朝廷につながっていく人々と考える。つまり3世紀段階の卑弥呼もこの奈良にいて、畿内にいて、近畿にいて、それが雄略天皇につながり、さらにそれが大和朝廷につながっていくと考えると、邪馬台国畿内説、邪馬台国近畿説が出る。「いやいや、まだそれはつながらないのよ。九州には九州の勢力がありますよ。吉備には吉備の勢力がありますよ。全国統一なんかまだできていませんよ。だから、卑弥呼と雄略天皇はつながらない。大和朝廷に一直線に行かないんですよ」と考えるのが邪馬台国九州説。そうすると、大まかに見て、「ああ、そうか、3世紀が卑弥呼の時代だな。5世紀が雄略天皇の時代だな。これがつながるかどうかで邪馬台国畿内説か邪馬台国九州説かに分かれるな」と、これだけ頭の中に入ったら、もう本を読むとき怖いものないでしょう?

僕は福岡県朝倉市生まれなんよ。しかも、そのわが郷里・朝倉は、「卑弥呼の里」と称している。僕が勤めている奈良大学は、邪馬台国近畿説の巣窟なんです。もう考古学者は全員そうなの。ということは、九州で話すときには九州説、近畿で話すときには近畿説。で、実をいうと僕も、まあ趨勢はね、3世紀段階でもおそらく近畿の巨大勢力が想定できるというふうに最近だんだん考えてきています。というのは古墳ができる時代は、研究で早くなってきていますから、大体畿内説が主流で、まあ、そう考えればいいわけね。ということは、8世紀の人が5世紀の天皇の歌を冒頭に据えているということは、8世紀の人から見たら、「これは偉い天皇です」というのが、みんなに知識として行き渡っていたと見なければいかん。今、みなさんに土台を作りましたよ。私が話した内容が頭に入っている人は、大体8世紀の読者と同じぐらいの知識量が頭の中に入ってると見なきゃいけない。「あ、雄略天皇ね。ああ、泊瀬朝倉宮ね」と。

では、その三輪山を古典で何と言うかというと、「みむろ」とか「みもろ」というわけ。この三輪山のふもとで作られている最中が「みむろ最中」。そのみむろ最中をみなさんに1個ずつ持ってきました。「ああ、これがそうなのか」と思って召し上がっていただきたいです。

●雄略天皇の歌からはじまる

そうすると、「ああ、雄略天皇の時代というのは三輪山を中心とした時代なんだ」と。で、そのあと、時代は徐々に飛鳥の時代になって、その飛鳥の時代から今度は藤原というところに。そこから平城京の時代になる。そうすると、『万葉集』というのは大体7世紀中葉から8世紀中葉が中心的な時代なんだけど、古い時代のことについては5世紀の雄略天皇の歌から始まるんだよ、と理解をしたらいいわけです。

そこで、読みますよ。資料下の訳文から先に見ていきます。

籠も 良い籠を持ち
へらも 良いへらを持って
この岡で 菜をお摘みになっているお嬢さんがた!
家をおっしゃい 名前をおっしゃいな……
(そらみつ) 大和の国は
ことごとく 私が君臨している国だ
すみずみに至るまで 私が治めている国だ
私の方から 告げましょう
(大王の)家のことも (わが)名前のことも
『万葉集』に万葉仮名で書かれているのを書き下し文にしたのが資料上です。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち
ふくしもよ みぶくし持ち
この岡に 菜摘ます児(こ)
家告(の)らせ 名告(の)らさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて 我こそ居れ
しきなべて 我こそいませ
我こそば 告(の)らめ
家をも 名をも

我こそば 告らめ
家をも 名をも
(巻1の1)

末尾は繰り返して着地していくように読んでいく。今、洗脳してますからね(笑)。末尾は繰り返して、着地していくように読んでいきます。〈籠も 良い籠を持ち〉、「籠(こ)」というのは籠(かご)のことです。ところがこれに「み」が付いている。これちょっと書いておいて。尊いもの、愛おしいもの、こういうものに「み」を付けるんですね。私の足、見てください。これね、古典でいうと「みあし」と言ってもいいわけ。「お」を付けて「おあし」といってもいい。こういうのを接頭語というわけね。両方付けたら「おみあし」になる。だから、接頭語を付けるということは、丁寧に言おうとするとか、愛おしいという気持ちや尊いという気持ちを表そうとするとか、そういうときなので、〈籠もよ〉と言ったときに、「み」が付くと、「あ、これは愛おしんで言ってるんだな」とか、「尊いものについて言ってるんだな」と思えばいい。

それをどういうふうに上野先生は講義するかというと、〈籠も 良い籠を持ち〉と訳したい。「み」が付いていることで「良い」と、これは褒めているんだなということを、訳文には反映させるわけ。そして「ふくし」といったら、若菜を摘むためには「ふくし」といって「へら」が要るわけです。そのへらも、「みぶくし持ち」だから、これも「み」という接頭語が付いている。そのことによって、〈へらも 良いへらを持って〉となる。

いいですか、ここのところ、丸で囲んでほしいところ。〈籠もよ〉の「も」に丸。〈ふくしもよ〉の「も」にも丸。これから今日前半最大の大ネタに入ります。助詞の「も」、助詞の「は」。「は」というのは「取り立て」。「も」というのは「添加」。取り立てというのは、たくさんあるものの中でも「取り立ててこれは」。たとえば、「私は上野です」。たくさん人がいたとき、私が上野という名前ですよというときに「私は上野」。これは取り立て。それに対して、「私も上野」というのは、ほかに上野という人がいることが前提の表現になるわけです。「も」というのは、Aというものがあったら必ずBが想定されているということです。「AもBも」と言ったら、Cも想定されているってことです。だから、「も」というのは加えていく。「みかんも好き。今川焼も好き」と言った場合、どら焼きも好きかもしれない。栗饅頭も好きかもしれない。つまり、必ずもうひとつのもの、さらには複数のものが想定されているのが「も」の表現なんです。それに対して「は」は、もうこれはAならA。いいですか? 

これから大体10分ぐらい、大ネタです(笑)。たとえば、(受講生に向かって)「素晴らしい季節感溢れる帯留めですねえ」という。「帯留めもいいですねえ」と言ったら、帯もいいんですよ。「帯もいいですね」と言ったら、お着物もいいんですよ。だから僕、よく学生に言うんですよ。「デートをするときは『も』で褒めなさい。『も』で褒めなきゃダメよ」。ところが取り立ての場合は、「それはいいけど、ほかはダメ」になる。そうするとね、天皇は最初から、「籠もいいねえ」って言ったらね、「へらもいいねえ」っていうふうに言っている。

全然違う話をします。NHKラジオで古典教室「万葉集・魂の宿る言葉」というのを54回やったのね。素人が54回やるって大変なことなのよ。ひとつだけ、もう絶対にできない体験がありました。たまたまだったんですけど、NHK放送センターで、となりの控室が福山雅治さんの部屋だったわけ。そりゃすごかったよ。胡蝶蘭がナイアガラの滝のようにワーッと。たまたま終わって出るときが一緒やったんよ。そしたら、部屋が隣だから挨拶された。「福山です」ってカッコいいのよ、これが。本当にカッコいい。それで、「これから先生も出るんですか」「うんうん、そうです、出ます」みたいな感じでNHKの廊下を歩いていくんやけど、福山雅治さんが3歩前を行くわけや。後ろ3歩、僕。そうすると、みんなが福山雅治を見る目線が集まってくるのを後ろで感じることができるわけ。ああ、福山雅治ぐらいに男前やったら、これだけ注目されるんや、と。もう女の人がポーッとなってたりするわけよ。ああ、すごいなあと思って、ずっとその後ろをついていって、タクシーが待っている西口へ。出待ちの人がワーッとおるわな。そしたら、一番小さい子どもが持ってる花束だけポーンと取ってタクシーに乗ってパーッと行く。これがスターかと思って、もう嬉しくてしょうがない。でも、そのあと寂しーい気分で、自分はタクシーに乗るわけ。

ところが、タクシーの運転手さんが言う。「失礼ですが、奈良大学の上野誠先生でいらっしゃいますか。私どもタクシーは、うるさい番組だと気がカリカリするんで、先生の万葉集講座をやってるときは必ずこれをつけさせていただいて、先生の万葉集の講座聞かせてもらってます」。来たよ、来たよ。わー、嬉しいなと。はい、ここから笑うとこよ。もう気分は最高ですよ。ああ、俺も一応、小さいとはいえ古典教室をやってて知られてるんか、みたいな感じで気分が高揚した。で、ふっと信号のときに僕の顔を運転手さんが見たわけ。そのときの一言がよくなかった。「先生、声いいですね」。ここ、ここ、ここ、ここ。僕は何と言ったか。いや、言わんかった。ぐうの音も出ませんでしたね。どこかほか悪いところありますか。「声いいですね」って、失礼な話じゃないですか。「声いいですね」なら、ね。これで「も」と「は」の違いは、もう一生忘れません。

今、この講義を聞いた人は、「も」という助詞に注目するだけで天皇がどういう気持ちでいるかがわかるし、「籠も良い、へらも良い」と言ったら、他もいいんでしょう。着てるものもいいんでしょう。天気もいいかもしれないですよ。摘んでる若菜がいいかもしれません。もっといいものはたくさんある、となるわけ。

〈この岡に 菜摘ます児〉の「す」は、尊敬を表す助動詞なんです。そうすると、「この岡で若菜を摘んでいらっしゃる」と訳さなきゃいけない。この場合の「児」は、実は複数形です。ですから、「お嬢さんがた」。だから、たとえば、あの子、あの子ら、とわれわれは言っているけれども、古代の場合は、〈菜摘ます児〉といったら複数を指してると考えてもおかしくない。「この岡で若菜を摘んでいるお嬢さんがた」と訳をつけたい。尊敬の意味を表しているから、「お摘みになっているお嬢さんがた! 家をおっしゃい 名前をおっしゃいな」となる。「告る」というのは、大切なことを言うことですから、〈家をおっしゃい 名前をおっしゃいな〉。

〈そらみつ 大和の国は〉。「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞。〈おしなべて〉というのは「ことごとく」ということですから、ことごとく〈我こそ居れ〉。私が居るということは、私がそこに居るということだから、私が君臨しているということです。天皇ですからね。〈しきなべて〉は「すみずみに至るまで」。〈我こそいませ〉、私が治めているんですよと。だから、私が君臨して、私が治めている国ですよ。〈我こそば 告らめ〉、私のほうから告げましょう。〈家をも 名をも〉、自分の家のことも名前のことも告げましょうと言っているわけです。これが『万葉集』の一番最初の歌なんです。

これは「雑歌(ぞうか)」という。『万葉集』の分類法があります。いいですか、『万葉集』の歌の分類法で雑歌。恋歌は「相聞(そうもん)」。死に関わる歌は「挽歌」。こういう歌の分類法があって、実は雑歌から始まる。必ず雑歌の次には相聞。相聞の次には挽歌。雑歌から始まるって何よ? 雑(ざつ)じゃない? っていうけれど、これは宮廷に伝わる大切な歌を雑歌と呼んだといわれています。そして、恋歌が相聞。男性・女性の恋歌が中心ですけれど、男性同士もありますし、女性同士もあります。それは交際する、互いに意見を聞くという、そういうことです。それに対して挽歌は死に関わる歌。

そうすると、『万葉集』を雄略天皇の歌から始めたいという意志が働いていることはおそらく間違いない。それは宮廷に伝わる大切な歌の中でも、さらに大切な歌。ちょっと難しく言えば、大和朝廷に伝わっていた伝承歌ということができる。その伝承歌は5世紀の天皇の歌で、この雄略天皇は、武力をもって全国統一を果たした天皇ということになっている英雄的な人。

ここのところは多分学者によって意見は分かれますが、おそらく、強い人の名前には「タケル」と付ける。そうすると、ヤマトタケルという人とワカタケルという人がいた。おそらく、これは一緒の物語だった。大和朝廷のために全国で戦った人たちの物語というのが、一方ではヤマトタケルの話になり、一方ではワカタケルの話になって、一方では天皇の話になって、一方では、天皇にはなり得なかったヤマトタケルの話に分かれていったと。これは学者の中で意見は分かれるけれど、「タケル」というのはそういう人物を意味している。だから、出雲にはイズモタケルがいるんです。「出雲で強い男」という意味になりますね。

そういうような天皇で、「籠(こ)」というのは若菜を入れる籠で、「ふくし」というのは若菜を摘むへらで、誉めることで、ここから求婚がはじまる。つまり家を聞く、名前を聞くというのは、古代社会においては結婚を申し込んでいることになります。ただし、実際の名前は心を許した人にしか明かさないというシステムがあるんです。お母さんが呼ぶ名を勝手に男の人に教えたりはしないというルールがある。つまり名前はちゃんと一人一人にあるんだけれども、それは絶対公にはしない。その名前を公にする、つまり私の名前は何々よと伝えるのは、結婚する相手だけに伝える。その結婚した男性も、その女性の名前をみだりに公表しないというルールがあります。

そして、たとえば、これはいつか小説に書きたいと思うけれど、ものすごく険しい山道を越えていくとき、その峠の神様に捧げものをする。捧げものがない。そのときには、その山の神に対して自分の恋人の名前を明かす。これが『万葉集』の中に出てくる。ふっと漏らして、助けてくださいって。古代社会には、そういうルールがあるわけです。そして、結婚を承諾したら家と名前を明かすのが古代の結婚で、家は住んでいる場所ともう一つ重要なのが、自分はどういう系譜の人間かという説明が必ず付くこと。名前は他人に明かしてはならないものというのが、平安時代まで続くんです。だから、苦労するのよ。思い出さない? たとえば、『更級日記』の作者は誰ですか。菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)、こう言わなきゃいけないでしょ? 『蜻蛉日記』の作者は誰ですか。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)と言わなきゃいけないわけでしょ? 『源氏物語』の作者は誰ですか。これはみんなが呼んだ呼び方です。『源氏物語』の「若紫」の巻を素晴らしく書いたところの藤原式部家から宮廷に上がった女性、だから紫式部。だから、「の」を入れてもいいんですよ。「むらさきのしきぶ」と言ってもいい。で、少納言を出した清原家から宮廷に出たところの女官の名前は、清少納言です。これからみなさん、もう今日帰りから、「せいしょう・なごん」と言ってたのが、「せい・しょうなごん」。みなさんね、友達と話しているときに、「『枕草子』、せいしょう・なごんでしょ?」と言ったら、「え、それってひょっとして、せい・しょうなごん?」と言わなきゃいけないですね。大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は『万葉集』の大変な歌人ですけれど、大伴家の坂の上の家に住んでいるところの女性なんですよ。笠郎女(かさのいらつめ)といったら、笠氏のお嬢さんという言い方です。そういうような名前しか残らないわけですよね。

●はじまりは求婚の歌

そうすると、天皇がその名前を聞く、家を聞くということは、若菜摘みをしている女性たちに結婚を申し込むという歌から『万葉集』は始まるわけです。ここで、大学で講義してると、いつも言ってるんだけど、「質問するときには、俺にわかる質問をしろよ。この先生はこの程度やから、この程度にしといたろっていうようなのにしろよ」と言ってるんやけども、パーッと手を挙げて、「先生、おかしいと思います。だって複数の女性がいるところで、みんなに対して結婚を申し込むのは、おかしいじゃないですか」。ところが、この質問は嬉しいんだ。これはもう、「いい質問してくれたね。そう思うだろう。でもね、これはおそらく、いろんな地域から女性が宮廷に上がるんだよ。春日市からも来る。古瀬市からも来る。平郡市からも来る。藤原市からも来るよ。いろんな女性が上がってくる。そういう人たち全員に対して結婚を申し込む形をとることで、春の縁起がいい始まりを表しているというふうに考えなければいけないんだよ」と教えるわけです。つまり天皇は、来ている人たちすべて、若菜を摘んでいる人たちみなさんと結婚したいと言っている。それが非常に重要なところであって、その結婚というものがどういう手続きを経て正式な結婚になるかということは、休憩を挟んで後半にします。

(休憩)

●当時の結婚の手続き

大体、年間5回は『万葉集』1番の歌の話をするかな。だって1年生向けの講義は、これをやっぱりやらざるを得ないし、3年生の本格的な勉強が始まったときも、これをやらなきゃいけない。ここで年に2回。さらに、講演で「1番の話をしてください」と言われますので、どの万葉学者も口揃えて言うのは、もうこの1番の歌の講義はマンネリ化との戦いね。また、あれかって(笑)。たまに、よその大学に招かれて集中講義するときも1番は必ずしなきゃいけない。そうすると、同業者が見に来る。これほど嫌なことはない。「ああ、上野は『は』と『も』の違いをこれでやってるか」とかね、「家と名前の問題は『せい・しょうなごん』でやっとるか」とか……みんな、それぞれのテイストがあるわけね。その先生その先生が持っている何かがあって、『万葉集』を語るなかでどういうイメージを持ってもらいたいか、どういうふうに情熱を持って語るかというのもそのひとつです。なので、みなさん方と一緒にここまでやってきて、〈籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね〉って、こういうふうに出てくると、「ああ、また4月になったな」と思うし、また、最初に自分のその『万葉集』の語りから『万葉集』の1番を勉強しはじめた人が増えていくのは、私としても嬉しい話なんです。

前半部分は、この『万葉集』の1番の歌、雄略天皇というのはどういう人ですよというような話をしてきたわけですよね。そうすると、〈家告らせ 名告らさね〉の、その家と名前を聞くことが求婚を表す、「結婚してください」ということを表すのならば、それはどういう手続きをとるかというと、最初は「名告り」から始まって、女性が名前を告げることは婚姻を承諾したことを表した、と。『万葉集』で「母が呼ぶ名」という言い方をした場合は、これは「公にしない名前」である。公にする名前は、大伴坂上郎女=大伴氏の坂の上の家に住んでいるところの女性、大伴坂上郎女というような言い方をして、実際の名前はどういう名前か明かさないという鉄則があるわけです。そして、男の人に名前を教えると、互いの名前を呼び合うことができるようになる。これは、「私は何々男ですよ。あなたは何々子さんですね?」というように互いの名前を呼び合う状態を、「呼び合う」ということで、「呼ぶ」という動詞をさらに変化させた形が「よばひ」。これは「よばふ」という終止形なんですが、「よばひ」という形があって、これは互いの名前を呼び合う動詞「よばふ」の連用形を名詞として使う言い方です。この段階になったら、男が夜に女の家に訪ねていく権利が保証される。夜訪ねて行ってもいいわけです。

ここからがまた大変なことなんですよ。実はこの段階では、女性は複数の男性に対して夜訪ねてくる権利を与えることができる。そうすると何が大切になるかというと、「今日夜は行きますよ」ということを、事前に女の人に通告する必要があるわけ。「つかひ」というお使いが出るわけ。「今日夜は行きます」と。だから、『万葉集』の歌を読んでいると、「使いも途絶えた」ってことは、「来てくれることも途絶えた」ということになるんですね。

そうすると、これ複数、調整せないかん。うまく調整がいかなかった場合、行ったけども女の人が戸を開けてくれないということがある。〈入りてかつ寝む この戸開(ひら)かせ〉という歌が出てくるんですね。「入って、あなたと共寝したい。だから、戸を開いてください」と。開けられないことがあるわけです。そうすると、男の人は悔しくて、夜露に濡れながら朝まで待つことになる。〈山のしづくに成らましものを〉なんて歌がそこで生まれてくるわけです。つまりそういうような期間がある。これはある意味で、結婚が長く続くものかどうかを男女が確認し合う時間ということになるわけです。ちょっと変な言い方ですが、クーリングオフ期間というかね(笑)。

いろんな本で、昔の作家の年譜なんか見たら、「何々さんと籍を入れたが、実際の婚姻生活は行われず」というふうに出てくる。それは、交際をするためには籍を先に入れるという文化なんですよね。だから、夜、特定の女性の家に訪ねていくとなれば、たいまつを焚いて訪ねていく必要もあるでしょうし、高貴な人ならばお付きの人もいるでしょう。ある程度公にする必要があるわけです。したがって、この「よばひ」というときは、婚姻関係に入っているんだが、まだ正式な関係にならないというようなことなんですね。これが、のちに解釈されるようになって再解釈、再解釈されて、「よばひ」というのは夜、這っていくことだと。そういうことで、お互いの名前を呼び合う。

「北の方」の由来

今までいろんなところで講義したけど、一番講義で苦しかったのは全国性教育研究大会。これを古典でやるってわけです。僕はこういう話をしたのよ。イザナキノミコトとイザナミノミコトの結婚。もうこれしかないからね。そのときは必ず互いのことを呼び合うんですよと。「あなにやし、えをとめを」、「あなにやし、えをとこを」。「まあ、なんと立派な乙女だろう」、「なんと立派な男だろう」と声を掛け合うんですよ。そして、「うつくしき我がなにものみこと(愛おしい、我がなにものみこと)」。そうやって御柱(みはしら)をめぐり合って結婚する。結婚するときには必ず目と目を交わす、互いに見合って結婚する。目のことを「まなこ」で「ま」と言いますから、目と目を交わすことを「まぐはふ」というわけです。まぐはふというのは、古典の言葉では目と目を交わし合って性交渉を行うということになります。だから、お互いに確認し合っていくわけです。確認し合って、これでよいだろうということになると、二人の結婚が社会に公にされることになる。公になるとはどういうことかというと、「妻訪(つまど)ひ婚」の形態だったら、男性が女性の家に通っていく形だから、お母さんと一緒に住んでいるわけです。お母さんと一緒の建物で新婚生活を送れないから、母屋にくっついている建物を作らんと具合が悪いわけです。夜の生活があるから。その建物のことを、母屋にくっついている「妻屋」というわけです。妻屋は、日当たりのいい母屋の南側には建てられませんから、母屋の北側に建てるのが一般的。だから、奥さんのことを「北の方」というわけです。その奥さんのいる居住空間が大きくなって、雇う人もたくさんいて、経済的にも女性が切り盛りしている場合、これを「北政所(きたのまんどころ)」というわけです。目から鱗でしょう? 「北の方」と言われたら、「あ、母屋の北側」となる。

そうすると、中心となっているのがオモで、これにくっついているのがツマ。オモとツマはくっついている。そうすると、オモが男性の場合は、ツマが女性になるわけです。今度ね、オモのほうが女性なら、ツマが男性になるわけ。そうすると古典で、ツマと出てきた場合は、夫である場合もあるし、妻である場合もある。これがよく、「傍線A『ツマ』とは具体的に誰のことか、本文中の言葉3文字で記せ」って出てくるのは、これを判定させるのが、その文脈の意味が取れているか取れていないかの判断基準。オモについてるのがツマだから、どっちがオモかツマか。だから、「ツマ」と言った場合、これは配偶者と考えればいい。古典の場合は配偶者だから、男性の場合も女性の場合もあるよ、と考えたらいいわけです。

全然違う話をします。今、私学認証評価制度といって、その大学がちゃんと教育をしているかどうかの認証を受けて、ちゃんとした大学ですよということを示さなきゃいかんわけね。いろんな書類を出したりして。その最後で認証する人たちとか、さらには文部科学省の専門官が大学に来て授業を参観する日があるわけ。そしたら、私、勤めてるのは奈良大学でしょ? 奈良やったら、『万葉集』の講義を聞きたいと思うじゃない。そうすると僕のところに来るわけよ。たまたま、妻という呼称が男性にも女性にも用いられるということを説明するところが、ちょうど授業の日やったわけ。これが、僕の授業の持ちネタ。「いいですか、みなさん。オモとツマとの関係、これでよくわかりましたよねえ。お刺身があるよね。お刺身はね、中心となるからオモだよな。ここまでわかったね」みたいな授業をするわけ。そして、「いいかな。お刺身の隣にある白い食べ物があるなあ。付け合わせといったら付け合わせなんだけど、白いものあるよな。これをね、何というかな?」って。こういう研究授業のときには、手を挙げてほしい学生と、絶対にこいつを指したくはないという学生がいるんですよ。もうこの人だけには指したくはない。絶対やめてくれ。ところが、「お刺身がオモだよね。横にある食べ物のことを何というでしょう」。パーッ。手挙がったのが一人だけ。しかもその本人には絶対当てたくない。「……他はいないかなあ」と言いながら、見るわけ。しょうがないから、まあ、当てるわな。「先生、もう答えは出たも同然です」。あ、よかった。これはなんとかうまくいくかな……。「お刺身の横にある白いものですよね?」。そうだ、そうだ。それは何だ? 「わかりました! それは白髪大根という」。違う! 求めているのはツマだ、刺身のツマだー!

話を戻します。歌の中で、妻となるべき人に対して声をかけている。そうすると、もしこれが普通の結婚であるならば、そのあとに「よばひ」の関係になって、男性が訪ねていくことになって、しばらく一緒に住むような関係になることもあったようですし、通い続けることもあるようです。そして、それが公になる。そのときに、婚姻を最終的に承諾するのが誰かというと、母親なんです。だから、『万葉集』には母親がたくさん出てくる。それに対して、夫が単独で出てくる例は1例しかない。お母さんのことを「おも」といって、それに対してお父さんを「しし」という例があるんですけど、両親を「おもしし」。「ははちち」もある。「お父さんお母さん」ではなくて、子どもが「お母さん」を先に言って「お父さん」を次に言う言い方が古代には存在したんです。母権社会というのはそういうものなんですね。日本って基本的には表向き父権社会で、内実は母権社会だと思う。つまり、母娘関係のほうが重要なのよ。だからね、うちのことやない、うちのことやないけど、大体、お嫁に行った人は里帰りしたとき、家に帰ったら何もせんでしょう? ずっと寝てるでしょう? で、帰りがすごいよねえ。冷蔵庫が空になるまで全部持って行く。あれが母権社会(笑)。介護でもそうよ。介護でもやっぱり母娘関係というのが今、介護のむしろ基本でしょう。

そうすると、「妻訪ひ婚」というのは、母と子どもの共同体に、異分子である父親が帰ってくる。夫婦が一緒に居住する婚姻でも、最近のジェンダー研究とか社会学の先生が、近代100年の間に形成されたものなんて言ってるわけです。そんな昔から続いてるものじゃない。『万葉集』を読んでいても、そういうものなんですね。

●歌垣の鉄則

そこまで理解すると、じゃあ、一体、結婚相手は一般的にはどうやって見つけるのか、という疑問がでます。貴族社会の上のほうは氏族と氏族の協力関係において大体釣り合うところで結婚していくけれど、一般の場合はどうなの? そうすると、これが『万葉集』でわかる。歌を掛け合うんです。これが「歌垣(うたがき)」。歌を掛け合って、相手と意見を交換していく。その中で気が合う人同士が、結婚していく。歌垣という場ではいくつか規則があります。第1条にあたるのは、必ず男性から先に女性に歌い掛けること。これは鉄則。どんな場合においても、女性が先に歌いたくても、男性が先に歌い掛けるという鉄則がある。2番目の鉄則は、1回目は必ず女性は断るというシステムになっているわけです。私自身、1回目は断るのはなんでかなと思っているわけです。誰もわからない、研究者もわからないわけですけど、こうではないかなと最近思うようになったのは、1回目は必ず断るという決まり事があればね、男性は2回チャレンジできる。1回目は必ず断るわけやから。だから、もう1回チャンスがある。2回目にトライできる。2回目がそこに存在する。歌垣の場合は男性から必ず言う。その歌垣の歌が『万葉集』の巻の12に残っています。

紫は 灰さすものそ 海石榴市つばきち八十やそちまたに 逢へる児やたれ
(巻12の3101)

それに対して女が応える歌。

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか
(巻12の3102)

最初の歌は男性の歌。〈逢へる児や誰〉のところに波線をひいてください。逢えるあなたは誰ですか? 何という名前ですか? これは結婚を申し込んでいる。長々と言っているけど、実は、ここにしか意味はない。〈八十の衢〉というのは、あちらこちらから道が集まっている場所。80もないとは思うけれども、たくさんの衢だから、もういろんな道が交わっている交差点になっているところを〈八十の衢〉といった。〈八十の衢〉で会った。道が集まっているところには市が立つ。この市場が歌垣の場になる。市場というのは恋が芽生える場所、歌垣の場所になるわけです。そのとき、最初に男性が歌い掛けなきゃいけない。これは、海石榴市(つばきち=奈良県桜井市にあった古代の市)という市場で歌われた歌です。その海石榴市の椿は何に使うかというと、ムラサキグサという草の根から、化学反応のためにいろんな手立てを尽くして紫色を出す。そのとき、アルカリ性溶液を加えなきゃいけないので、灰を加える。灰の中で一番いいとされていたのが海石榴の灰。アルミニウムが含まれているといわれている。そうすると、この歌がどういうことかというと、〈紫は 灰さすものそ〉、紫色を出すには灰が必要なんですね。灰の中で一番いいのは椿です。今、あなたと私がいるのは海石榴市という市場ですね。その市場はあちらこちらから道が集まっています。その道の衢で会ったあなたは誰? って。くだらないっちゃくだらない(笑)。でも、そういうものを全部排除したから、近代短歌はおもしろくなくなったんだと思う。近代以降の短歌は、愛と死を見つめていて重い、暗い。こんなのがあってもいい。おそらくそういうのを回復していったのが、たとえば俵万智さんの『サラダ記念日』。他にも、宮崎の伊藤一彦先生の新しい短歌集とか見ると、笑えるような歌がある。近代短歌には笑えるような歌があまりないですよね。

歌垣のようなものがなぜ生まれるかというと、ここに歌の社会性を見る。何かといったら、初めて出会った人と話をしたい、歌を掛け合いたいわけです。そうすると、最初から「あなたの名前は何?」ではなくて、〈紫は〉って言ったら「紫色のこと」、〈灰さすものそ〉と言ったら「まあ、灰入れるよねえ」、「灰で一番いいのは椿だわね」、「あ、ここ海石榴市だったよね」。「八十の衢で会ったあなたは誰?」って言ったら、聞いてくれるじゃない。つまり相手に、「一体この人は何を言いたいのかな」と疑問を持たせる必要があるんです。最初から、「あなたと結婚したいです。あなたのところによばひに行きたいです」と言うのでなく、〈紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰〉。こういう歌ならば、女の人も返せるわけ。遊びの心があるから、そこでコミュニケーションが成り立つ。そうすると、これに対して女の人は、〈たらちねの〉……〈たらちねの〉というのは、よく「年を取っておっぱいが垂れ下がっている」というけれど、違う。栄養状態がよくない時代においては、乳房が房になるまでになる人は稀だった。つまり、乳房が房のように垂れ下がるまでになるのはむしろよいことで、これは豊満な乳房を持っているということです。だから、母に掛かる。〈たらちねの 母が呼ぶ名を〉、お母さんだけが呼んでいる名前を、〈申さめど〉、申し上げたいけれども、〈道行く人を〉、道行く人を誰と知ってか申し上げることができましょうか。定石どおりに1回目はダメ。でも、この歌が返ってきたということは、男の人はもう1回できるわけ。

●歌垣の名残「はないちもんめ」

歌垣の文化が今残っているとすると、中国の少数民族の一部、トン族とかが歌垣の文化を持っていたけれど、これもかなりなくなってきています。唯一残っているのは、相手が反応しなければならないように歌で追い込んでいくとき。子どものときにやらなかった?「♪や~やや、ややや~、せ~んせいに言うた~ろ」、これですよ。そうすると、言われたほうは返すよね。「おまえだってガラス割っただろ」というふうに返す。「はないちもんめ」もそうやね。「何々ちゃんが欲しい」って。あれね、やってるあいだに本当に好きな人が誰かわかるようになります。歌を掛け合いながら、相手の気持ちを確かめていく。こういう万葉時代からの文化を背負って、平安時代になると、ちょっとちょっかいを出すような歌を女の人が女官に対して掛け、それに対して「いや、違いますよ」とやり返す。そういうかたちが多いですね。

『万葉集』の時代ほど女歌が元気な時代はない。たとえば天武天皇が、「ああ、俺のところに雪が降ったぞ」。奥さんの一人に大原夫人、藤原夫人ともいうんだけど、「俺のところに大雪が降ったぞ。あ、おまえが住んでいる大原の里に降るのはあとだろうけどね」と歌うわけです。〈わが里に大雪降れり 大原の古(ふ)りにし里に落らまくは後〉。ところが、天武天皇がいた飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)、飛鳥岡本宮と大原の里は500メートルしか離れてない。すると今度は、女のほうはパンチを返さんといかん。強く言われたら、もっと強く言わなきゃいけない。〈わが岡のおかみに言ひて降らしめし 雪のくだけしそこに散りけむ〉と歌う。どういう意味かというと、「私の岡の竜神様に言って降らせた雪のかけらが、あんたのところに降ったんですよ。私のところで降った雪のかけらがあなたのとこですよ」。こういうふうに女歌が元気がいい。

ところが、学校の先生の研修会で、もうこれは絶対教えるのはやめてって言うんやけどね、「『万葉集』は男性的な歌が多くて、これを『ますらおぶり』といいます。『古今集』は女性的な歌が多くて、『たおやめぶり』といいます。優しい女性の歌といいます。『ますらお』というのは強い男性。だから、『万葉集』は男性的な歌集なんですよね」。本当は、女性が元気なんです。歌垣の文化が歌を育てていますからね、女性の歌。日本の文学の歴史の中で女歌が一番元気がいいのは、実は『万葉集』なんです。必ず僕は学生に、そういうふうに教えています。

春になったら若菜摘みをする。市場に行って女の人がいたら声をかける。そういったときに歌を用いて交流を続けていく。そこで歌の表現が磨かれていくのが『万葉集』のひとつの世界なんです。そういうのは伝統として脈々と続いていて、710年の平城京以降はこういう歌があるんですよ。「煙を詠む」。これは「けぶり」を詠むと読みたいところなんですが、〈春日野に 煙立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも〉。春日野で煙が立っているのが見えると。そして、〈娘子らし〉おとめたちが、〈春野のうはぎ〉、よめ菜のことなんですが、よめ菜を摘んで煮ているらしい。春の若菜摘みで摘んだ若菜は煮て食べた。これは強調して私いつも教えるんですけど、若菜を摘んで、煮て食べる。煮て食べたら当然、お祭りのときだからお酒も出るわけ。そういう楽しい気分が『万葉集』の巻1の心です。〈籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち〉なんていうのは、そういう春の野の遊びです。これが春日野で行われた。奈良に行って東大寺と興福寺だけ見て帰る人は偏差値40ぐらい(笑)。もう1泊して薬師寺と唐招提寺に行ったら偏差値が55ぐらい。もう1泊して明日香村に行って、「飛鳥の都と藤原の都の距離が、こんなに近いんだ」と思ったら偏差値65ぐらい。そして、〈采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く〉と言ったら、偏差値70ぐらいです。さらにその上は吉野に行く。でも、忘れてはいけないのはどこかといったら、みんな行かんけど行ってほしいのは平城京です。平城京のあの空間に立って、「ああ、この東の守り神が春日山だなあ。西の守り神が生駒山だなあ。北の守り神が平城山(ならやま)だなあ。都は南に開けているよなあ。そして東は青龍で龍が守ってるよなあ。西は白虎で虎が守ってるよなあ。南は朱雀で赤い大鳥が守ってるよなあ。北は玄武が守っているよなあ」と思う。そして、平城京の大極殿の前に立って、「あれが春日野かあ」。そのときに煙が立っているのが見えたときに、この歌がふっと出てきたら、もう偏差値120ぐらい。

春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも
(巻10の1879)

ここで働いている男性の役人たちは、あそこで煙が上がったら、仕事をやめてすぐにでも行って、若菜摘みをしているお嬢さんたちにちょっかいを出したいわけよ。そのときに、いろんな歌を歌い掛けて、若菜摘みをしているお嬢さんたちとコミュニケーションをとる。そういう文化があるわけです。そうすると、そういう場が何と呼ばれているかというと、「野遊び」。野遊びというと、たとえばこんな歌があります。『万葉集』の巻10の1880の歌です。

春日野の 浅茅が上に 思ふどち 遊ぶ今日の日 忘らえめやも
(巻10の1880)

春日野の浅茅の上で気の合う仲間たちと遊ぶ今日の日のことは、忘れられようか。〈思ふどち〉は「気の合う仲間たち」。お互いに気の置けない仲間たちと遊ぶ今日の日のことは、忘れられようかと。こういう歌がなぜ生まれるかというと、これも歌のひとつの社会性。春日野で遊ぶ今日の日はもう忘れられないよ、と歌う理由は、「今日は楽しかったねえ。みんなよかったねえ」という気持ちを共有するのがひとつ。と同時に、「楽しかったね」といったら、お酒を出してくれた人が浮かび上がります。そうすると、またピクニックやって、お酒出して、おつまみ作って行こうかってことになりますよ。だから、褒める必要があるわけ。そこで、楽しく歌を掛け合っていくわけです。

●春の野は寒い

若菜摘みの野遊びは宿泊を伴うことも当然あるわけです。山部宿禰赤人の歌が4首あって、その中の2首を今日は取り上げますけど、こういう歌があるんです。

春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける
(巻8の1424)

春の野にすみれを摘みにとやってきた私は、野のことを愛おしく思って――この場合の形容詞「なつかし」、そして、こういうようなこの言葉の使い方をした場合、これは「愛おしい」と訳したいと思います。野のことが愛おしくなって一晩寝てしまったよ、と。中学校の先生がここにいたら、ごめんね。この歌を教えるときに、「皆さん、『万葉集』というのは大きな自然と人間とのコミュニケーションの中で歌われた歌ばかりですよね。この山部赤人という人はね、春の野にすみれを摘みにやってきたら、あまりにも野のことが愛おしくなって一晩そこで寝てしまったんですよ。自然と一体になったんですよ」。こういうふうに教えるんです。絶対にそんなことはない。ない(笑)。

僕もいろんな出版社の監修とかやるようになって、この説は絶対に入れるのをやめてと言って、除かれているとは思うけど、残っていて、それで教えられていたらガックリなんやけど、なぜその解釈がないかというと、この4首の中にこういう歌があるんです。

明日よりは 春菜摘まむと 標(し)めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
(巻8の1427)

雪が降ってるところで寝たら死ぬでしょ。だから、それはないの。野原にやってきてすみれを摘んでいるあいだに、野原がなつかしいと思って、そこで一晩明かすって、そんなことはないんですよ。明日からは春の菜っ葉(よめ菜)を摘もうと標めをした。標めをするというのは、「この空間は私たちが若菜摘みをする空間なので、ここの若菜は摘まないでくださいね」といって縄を張るのがひとつ。もうひとつは、縄を張らなくても、たとえば杖1本立てても「ほかの人たちがここを使うからダメですよ」という印になる。これは何に近いかというと、お花見の場所取りみたいなもの。ここで宴会するわけやから。ところが、〈明日よりは春菜摘まむと標めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ〉なのよ。おそらくこれね、雪が降ったときのことをちゃんと考えてあって、室内で食事ができるようになっているでしょうし、お酒も飲めるようになってるわけですよ。そういうものですよね。だから、〈春の野にすみれ摘みにと来し我そ 野をなつかしみ一夜寝にける〉とはどういうことかといったら、みんなと楽しくお酒を飲んだら朝になったということ。つまり、宴会が盛り上がって帰ることができなくなったときに、こういう歌を歌うわけです。そして、この若菜摘みのときは、これはどうも、若菜摘みは行われなかった(笑)。あまりにも寒くて。だから、結局、料理だけ食べた。お酒だけ飲んだんですよ。そうすると、〈昨日も今日も雪は降りつつ〉となるわけですよ。

そういうふうに無理がないように考えていくと、歌がコミュニケーションにとってどれだけ大切なものであったかがわかるわけです。そういうことを考えていくと、たとえば、天皇が住んでいるところは宮ですね。その宮の周辺に役所があったり、役人さんが住んでいる場所など、さまざまなものがあって、これが都なんです。その外に野があったり、原っぱがあったり、さらには、その外に山がある。ここで働いている、ここに住んでいる人たちが野に入って、若菜を摘んで食べるとか、原っぱでピクニックをするとか、そういうのが野遊びといわれているわけでしょ。そのときに、若菜を摘む。その若菜を摘むのは、実は古代では女性労働なんです。といっても、これは春になって若菜を摘むということをするという形が大切。つまり、女性労働なんだけれども、「春を寿ぐひとつの儀礼」と考えなきゃいかん。今、何に残ってますか? 七草粥ですよ。七草粥は、『万葉集』1番の若菜摘みにつながる行事なんです。春を寿ぐ、春の若菜の力を体に取り込んでいく、そういうものです。そこでお酒も出る、食事も出る、歌を掛け合う。しかもそれは、宮があって都があって、その周辺で行われているわけです。

モニターを見てください。神様がいる場所、天皇がいる場所、これが宮ですね。この周辺を都といいます。「コ」というのは場所を表す接尾語ですから、ミヤに対してミヤコです。そして、ミヤというのは「宮域」。天皇が住んでいる場所が宮(きゅう)。皇居です。それに対して、皇居を取り囲む行政地域が「京域」なんですが、これがミヤコ。つまり東京都です。だから、皇居があって東京都がある。こういう関係があるわけです。

図は平城京です。710年から784年、『万葉集』が編纂された時代。大伴旅人がおり、大伴家持がおり……僕、この地図見ながら「ああ、藤原仲麻呂、失脚したんやなあ」とかね、いろいろ言えますよ。「薬師寺つくるときは大変やったよなあ」とかね(笑)。こういう構造です。これを見ると、ここが平城宮で全体が碁盤の目。真ん中を通る道が朱雀大路。宮の南門が何かといったら朱雀門。都の南門が羅城門。羅城門というのは、都の一番南の門になる。そうすると、メインストリートの全体の京の南が羅城門。最近の発掘だと、羅城門の近辺だけは壁をきれいにしていたそうです。外交使節がこの真ん中の道を通るから。何か思い出しませんか? 都が寂れてくると、羅城門に浮浪人たちが集まってくる。「この女はどうも生きているときに蛇の肉を干魚の肉じゃと言うて売っておった女だ。死んだこの女の髪を取ってもいいだろう。皮を剥いでかつらにしてもいいだろう」。あの『羅生門』の世界じゃないですか。だから、あれは南の門の物語だと考えたらいいわけです。

東は太陽が昇る方角で、春を表す。東の方角は春だから「青春」という言葉があるんですよ。ここで春の行事をやるんです。だから、春日(はるひ)を「かすが」と読む言葉もあるし、ここには春日大社があるわけ。この一帯が春日野で、その春日野で若菜摘みをやれば、当然煙が上がる。ここで働いている人たちは、乙女たちが若菜摘みをしているなとわかったら、居ても立っても居られなくなると考えていかなければいかんわけです。この都の形は、実は中国の大唐長安城と同じモデルを使っているから、規模は違うけれども大体四角の都になっている。

『万葉集』の時代の都、畝傍(うねび)山の下あたりに、「飛鳥」はあった。592年から694年、これが飛鳥の時代。『万葉集』初期の歌人たちはここで活動するわけです。これが694年から710年の藤原京の時代になって、平城京の時代は710年から784年。このあいだに短期間ですが、恭仁京とか難波宮とか紫香楽宮とかに天皇が転々としているときがあるけれども、基本的には710年から784年は平城京の時代。そして、平安京の時代になるわけです。『万葉集』の時代というものは、飛鳥、藤原、平城京の時代で、大体この地図の範囲が『万葉集』の時代。『源氏物語』『伊勢物語』の時代というのは、平安京だから北に行きます。よく学生には言うのですが、「君たち、土地を買うんやったら、仙台ぐらいがいいぞ」と。長いタイムスパンでいくと、神武東征は宮崎から始まる。それから瀬戸内海を経て、奈良時代がやってくる。次は山城の時代になって平安京になる。次は鎌倉の時代。次は江戸時代。つまり日本の政治権力の中心地は西から東へと行くから、次に値上がりするのは仙台だろうと(笑)。

今日、私が強調したいのは、若菜を摘んで共同飲食をすることに意味があるということ。これを忘れて『万葉集』1番の歌は成り立つわけがない。表現がわかるわけがない。みんなで若菜を食べる。それは、ひとつ釜の飯を食った仲なんです。ともに春の到来を喜び合う年中行事なんです。つまり若菜は摘まなきゃいかんけれども、もっと大切なのは、その場所に集まってみんなで楽しく食事をすること。若菜を摘む。しかも若菜を摘んでいる人には必ず声をかける。結婚しましょうと声をかける。おそらくそういう文化がある。とすれば、天皇がその場所に出て行って、娘さんたちに「結婚しましょう」と声をかけることそのものがやっぱり儀礼なんです。それでいいわけ。そのあと結婚が実際どうなったかということではなく、その場所に天皇が出ていって「結婚しましょう」と声をかけて食事をする、それがいい。それが秋の豊作を予感させることになって、春の結婚が秋の豊作を予感させる。これを、ちょっと難しい言葉ですが「予祝儀礼」というんです。

この歌は、力を持った大王の歌として大和朝廷に伝えられていた歌だと見なきゃいかん。そういう歌だから、万葉集の1番にふさわしい歌としてここにあるわけです。実際、春を寿ぐ行事といえば、たとえば薬師寺だったら花会式。代表的で有名なのが、東大寺のお水取り。毎年毎年おんなじコメントですよ、ニュース。「南都に春を告げるお水取りの季節がやってきました」とかね。それで「ああ、春だなあ」と実感する、これが『万葉集』1番の歌として採られているところに、その歌の意味があるわけです。

『万葉集』をこれから勉強しますけど、1回目はね、突然月面宙返りやがな。2回目は、まあ、上野節やがな。3回目がすごいよ。岡野弘彦先生。『万葉集』の最初の全口語訳を成し遂げた折口信夫(おりくちしのぶ)という先生の晩年のお世話をした先生です。革命児となって近代国文学を切り開いた折口信夫の晩年を支えた。食事を作り、お風呂を焚き、生活を共にした先生です。その先生がどういうふうに語るか。僕も大学のとき講義を受けたけど、あんまり言うたらいかんけど、講義しながら、途中で泣かれることがあるんです。「家持は……」とこう。僕、「これは本物や」と思ったね。岡野先生。さらには、梯久美子先生が何を講義するか。斎藤茂吉という歌人が作った『万葉秀歌』という本を持って、みんな戦争に行った。戦争に行った人たちはみんな『万葉集』が好きなんです。『雲の墓標』という阿川弘之の小説に、こういう話があるんです。『源氏物語』を持っていった兵隊さんはぶん殴られた。「こんな軟弱なものを持って!」と。『万葉集』を持っていった兵隊さんは褒められた。でもね、そういう教養のある人が、一体戦場でどういう歌を歌ったか。しかも、折口信夫が養子にして一番寵愛した弟子、折口春洋(はるみ)という人は、硫黄島で戦死しているんですよ。そこのあたりを梯先生がどう語られるか。決してプレッシャーかけているわけやないけど、これどういうふうに語られるのか知りたいでしょ? それに加えて、ピーター・マクミランさんが『万葉集』の英訳、しかもほぼ日の学校のために新訳を考えに考え抜いてくれたりするわけです。

まあ、はっきり言うてね、この『万葉集』講座、邪道中の邪道(笑)。いきなりシェイクスピアから始まってね。でも、実際には、そこで語られる先生の語り口の中で、それぞれの先生のテイストがあるわけ。僕は僕の語り口の中で、私の『万葉集』というのは、やっぱり生活なんです。「生活と実感」というのが僕の切り口なので、その生活と実感というところでどういうふうに『万葉集』を説いていくかが僕のテイスト。それぞれの先生たちの切り口を楽しんでほしいということで、おあとがよろしいようで。

(拍手)

おわり

受講生の感想

  • もし誰かに「『万葉集』でしゃっくり出るほど笑うよ」と予言されたら、「なに言ってんの、この人」と横目で見たと思うのですが、まさに、予想の「はるか上空」をいくおもしろさ。そして、ものすごく刺激的でした。「知識を入れていきますよ!」という宣言のもとに惜しみなく注がれる情報を、おいしい水のようにごくごく呑み込むという贅沢な時間。上野先生という山に濾過されたおいしい水で『万葉集』を学べる幸せよ……。

  • 本当に興奮しました。上野先生の『万葉集』愛というか、学ぶことに対する熱量に圧倒されました。すごく幸せな気分です。

  • 上野先生の講義を拝聴して、いままで閉じていた新しい世界の扉が開いたような感じを覚えました。短歌を作り始めてまだ1年弱ですが、歌を作り始めると今まで見逃していた日常の風景の変化や自分の心情に気づきやすくなることがわかりました。いわば、自分の生きている水平世界が広がったのですが、万葉集講座を通じて現在と過去という垂直方向にも世界を広げられることがとても楽しみです。

  • 『万葉集』、あまりにも昔のもので理解が難しいなあ、と思い込んでいましたが、急に身近になりました。