シェイクスピア講座2018 
第12回 村口和孝さん

ベンチャービジネスと『ヴェニスの商人』

村口和孝さんの

プロフィール

この講座について

学生時代シェイクスピア研究会に所属し、演出にあけくれたベンチャーキャピタリストの村口和孝さん。日々、未知の未来に賭け、新しいビジネスに投資し、10年以上かけてその果実を手にする、ご自身のそんな人生を『ヴェニスの商人』に重ねて熱く語ってくださいました。シェイクスピアは読むだけじゃない、「生きる」ものだ、と思いたくなる授業です。

講義ノート

私は学生時代にシェイクスピア劇の演出をしていました。社会人になって、投資会社を作りまして、投資活動をやっています。そんな中で、やはり私のベースにはシェイクスピアがあって、学生時代にやったことの断片が、頭の中でときどきパチパチッとする。一体どういうことなのか、と思い返してはシェイクスピアの本に当たってみたりしていました。そんなお話をしたいと思います。今日は「新『ヴェニスの商人』論」ということで、シェイクスピアから学んだ人生をお話ししようと思います。シェイクスピアとの出会いから、私が実際に投資をして毎日ヒヤヒヤ、ドキドキ、いろんな目に遭う。そんなことを振り返って、シェイクスピアとダブらせながら、『ヴェニスの商人』はこういう芝居だったのではないか、というようなことをみなさんと共有できれば、というのが今日の大目標です。

まず、ここに不思議な数字が並んでます。「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」。1幕、2幕、3幕、4幕と読んでもらってもいいです。私もいろんな仕事をしていますが、あまりに情報が多いものだから、それを処理してみんなでチームプレーをやらなければいけないときに、人間はどんなモデルを描いて生きるのか? 意外とこんなもんじゃないのかなと思って私がたどり着いたひとつのモデルが「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」です。これを当てはめると大体の問題は解けると思うのです。

たとえば、今日、「ほぼ日」に来なければいけない。でも、来るときに電車が止まってるとする。どうしようかなと。「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」ぐらいの変化というか、「幕の違う間が、ひょっとしたら自分の前に広がってるかもしれない」というような言葉で、自分の未来を読み込むスペースがちょっとあれば、いろんな問題の解決ができるんじゃないかと思うのです。非連続的なんです。何を言ってるのかよくわからないと思うので、話を進めます。私の事務所のミッションはmake people happy。人を幸せにしなかったらビジネスは成り立っていかない。そしてfind future trends。未来の動きやトレンドをとらえていく心。それからmake things happen。思ったら、それをどうやって実現すればいいかを考える。それが、さっきの「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」というぼんやりしたモデルなんです。

DeNAは、私が創業を応援した会社ですが、私は人生の中であのような成功事例を40ぐらい作りたい。これは、シェイクスピアが約40作品を書いたことからきています。私も40作品ぐらい成功事例を作りたい。シェイクスピアからもらった、うちの事務所の大目標です。別に根拠はありません。私はシェイクスピア研究者ではないし、英語を本格的に学んだこともありません。ひょっとしたらみなさんよりも知らないかもしれない。ただ、投資家として、また人生に悩む者として、人生体験に基づいてシェイクスピアをできるだけ素直に読み解いていこうと努力しています。常識外れや間違いがあるかもしれませんが、今日のお話は2018年7月の私の見解であって、ひょっとしたら明日変わっているかもしれない。そこはお許しいただきたいと思います。

IPSという、うちの投資先が先週東証マザーズに上場できました。最初に出資してから13年と3か月かかりました。本当は去年の今頃上場していたはずなんですが、延びて、ようやく上場した。私は東京証券取引所へ行って、鐘をつきました。いい音がするんですよ。「カーン」ってね。宮下社長から、「13年も待ってくれて本当にありがとうございました」と言われて感激しました。13年って何を思い出しますか? ジュリエットの年齢ですね。もうすぐ14歳になるんです。なんで13歳なのか翻訳家の松岡和子先生にお聞きしたら、7の倍数のちょっと手前であると。シェイクスピアは7の倍数をすごく気にしていたらしい。そう考えると、私の投資も7に支配されているのかなと思ったりします。

私が学生時代に演出した劇に『テンペスト』があります。『テンペスト』は、「12年前のことだ、ミランダ」というところから始まるんですよね。12年の長い長い歳月があったあとの1日。その最後の1日の数時間が、12年間の長い歳月の最後の1ページなわけだから、一言一言に12年分の重みがあるわけです。12年前にミランダはたぶん1歳ぐらいでしょうから、これもやはりミランダが生まれて13年。それぐらいがひとつのサイクルになってるのかもしれません。ベンチャーキャピタルのファンドも10年契約なんです。それで、2年間延長ができる。だから、10年プラス2年の12年でケリをつけろというのがベンチャーキャピタルの投資の世界で、これまた不思議な縁だなと思ったのを思い出します。IPSの業績をみると、伸びてきたのに5年前に厳しいことが起きて破綻しかかりました。社長が私のところに来て、どうしたらいいだろうかと。これはもう元気づけるしかないと思って、「こういうことって、しょっちゅう起こるんですよ」と答えただけなんですが、社長にはそれが響いたらしくて、今でも感謝してくださいます。

人生を5幕くらいで考える

さて、『ヴェニスの商人』です。「あなたの船が3艘積み荷を満載して、ひょっこり港に帰ってきたそうですよ」というセリフがあります。人肉裁判が4幕で終わって、いろんなことが終わったあとの5幕1場で、アントーニオの船がひょっこり戻ってくる。なぜ最後にアントーニオの船が戻ってきたんだろう? 『ヴェニスの商人』のどこにその謎が、どういうふうに書いてあるんだろう? シェイクスピアのことだから、The Merchant of Venice(原題)というからにはヴェニスを代表する商人だろうし、それならアントーニオのことで、最後に船が戻ってくるのなら、そこで何かを語ろうとしていたのでしょうし、観客もそれを期待して観に行っただろうと思うわけです。

私の現実のお話をしますと、お見せしているのが、IPSの上場日から今日までの株価の罫線です。株価が上がったり下がったりするのをグラフにしたものです。今日初めて、一瞬、株価1万円をつけました。3900円で始まって、6000円で1日目が終わって、今日1万円まで上がった。いろんな投資家がこうした売り買いをしています。そして、ネットの、ある株関連の掲示板を見ると、「大株主の村口和孝は株を売ってる。今頃成田だろう」とある。今日の書き込みです。私が一生懸命このシェイクスピア講座の原稿を書いている真っ最中。「村口和孝は売った儲けでフィリピンに行くらしい」という噂が流されている。私の身の回りでは、こういうことが日々起こっているのです。『ヴェニスの商人』の3幕1場に、サレーリオという奴がおります。これが東京にもいっぱいいるんです。サレーリオは何と言ってるか。「例の噂でもちきりだ。積荷を満載したアントーニオの船が海峡で遭難したという。なんでもグッドウィンとかいう、恐ろしく危険な浅瀬で、豪華な船の残骸がたくさん埋まっているらしい。噂というおしゃべり婆さんが噓をつかない正直者ならね」。たぶん、サレーリオは噂が大好きなんですね。みなさんはもう『ヴェニスの商人』の結末を知ってるから、ネタバラシも何もないけれど、船は最後に戻ってきます。だけど、3幕1場では、その噂がヴェニスの街の中で伝播して、「村口は株を売って儲けたらしい。今日、成田からマニラへ飛んだらしい」ということになっている。こういう世界ですね。

不連続で断層的な未来

われわれの時間の実人生の延長線上には、不連続な、自分が思いもしないような「0→1、1→2、2→3、3→4」が広がっていると思いませんか? 地震や津波や、北朝鮮やサッカー‥‥毎日ヒヤヒヤしながら地球上で70億人がすったもんだしてドラマを展開している。それで、私が生きていく上で、あるいはみなさんが生きていく上で、こうなればこうなる、という三段論法で人生を見ていたら、そのとおりには絶対いきません。私は人生は5幕ぐらいあると思っていて、今、自分は1幕ぐらいをやっている、全体はどうなるんだろうかと思うくらいがちょうどいいと思っています。それがシェイクスピアの知恵というか‥‥。シェイクスピアは別に5幕にこだわったわけではないと思いますが、2時間から5時間ぐらいで劇が終わっていったと思われる大構造の知恵。ですから、私がシェイクスピアから得る知恵というのは、「5幕ぐらいで考える」ということ。逆にいうと、自分は未来を読めないぞと思って、未来に向かって覚悟して挑戦していく。

横浜ベイスターズのオーナーの南場智子さんも、新潟で生まれたときには、まさか自分が球団オーナーになるとは思ってなかったでしょうね。南場智子さんがDeNAを創業して、途中トラブルが何回も起こります。私が最初に投資したときの事業計画通りにいってません。考えてみると、私が三十数年間、投資してきて事業計画通りいったためしがない。けれども、もう20社ぐらい成功しています。相手が言った事業計画じゃなくて何を読むんだと聞かれます。これは『ヴェニスの商人』1幕1場の、バッサーニオの「射た矢を取り戻す」というセリフに近いものがあるんです。(バッサーニオは「学校時代、ぼくは一本の矢をなくしたら、それを探し出すために、同じように飛ぶ矢をもう一本、同じ方向に、今度はもっと気をつけて放ち、二本目も危険にさらすことによって、二本とも見つけたものだ」と語る)。「え、そんなことで数億円も投資するんですか」と言われますが、実態はそうなんです。事業計画はもらいますけど、そのとおりいくと私は思っていません。「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」みたいなことが起こると思っている。

1999年に1回目の出資をしたとき、DeNAのシステムがトラブルを起こしました。南場さんから土曜日に電話がかかってきて、「村口さん、ごめんなさい。開発できてるはずのシステムが実は1行も書かれてませんでした」。とにかく駆けつけた。私が話をまとめて、48時間、2日間かけて月曜日の朝までになんとかしようと、なんとかケリをつけた。「0→1、1→2、2→3、3→4」の発想です。非連続的な何かをやって、なんとかやり切った。そして南場さんにこんなメールを送りました。「(事件は)起こってしまいました。こうなったからには、どうやって立ち直るかが問題です。DeNAのこれからの立ち直り方に、ソニーやリクルートから真に独立した経営陣として認められるか否かがかかっている。投資家はそのような目で見ているということを片時も忘れずに対処してください」。月曜日の朝です。そしたら南場さんはみんなを集めて話をして、「カッキーン!と音が鳴るように全員が同じ方向を向き、気持ち悪いほど前向きな集団に生まれ変わった」というのです。こういう瞬間が48時間で起こったわけですね。

『ロミオとジュリエット』で3、4日の間にいろいろなことが起きるのに近い話なんですが、48時間あれば、ひどい状態から手を打って次に進むようなことが現実に起こる。結局、みんなが動き始めて、DeNAは立ち上げることができて、2005年2月には上場できた。「0→1、1→2、2→3、3→4」、こういう人生における不連続な、人智を超えた断層的な未来。これを自分はどう――喜びを持ってなのか、危機感を持ってなのか――感じるか。今日から4日間でも5日間でも、何かの問題にチャレンジするときに予期していないラッキーなことや壁に当たることも含めて、これを頭に置いておかれたらいいと思います。

DeNAが成功しましたので、税金を東京で全部納めるのもどうかなと思いました。故郷の徳島でお世話になった人たちがいっぱいいる。お世話になることを『ヴェニスの商人』でboundという単語で表現しています。キーワードのひとつですね。be bound to、誰々に負っている、誰々とつながっているという表現ですね。『ヴェニスの商人』の中でいっぱい出てきます。私も田舎とつながって、やっとこさ慶應の経済を卒業して投資家になれたので、そのお返しをしようと思いました。1月1日に現住所のあるところに住民税を納入できることを知りまして、住所を2か月間だけ移した。しかし、いちいち移さないで、もっとなんとか仕組みでできないものか。なぜなら、田舎から出てきた人で成り立っている東京なのに、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんが東京に仕送りをして、田舎の商店街がシャッター通りになる。税収は減る。人口は減る。東京に来て税金を納められるようになった人たちが田舎に納税できるようにならないかと思って、その年の3月に日経夕刊に「ふるさと税制」と書いたら、翌年に立法化されて「ふるさと納税」になった。ふるさと納税はすごい大ヒットになりましたが、私は1円ももらっていません(笑)。

ビットコインの値上がりも去年非常に話題になりましたけれども、業界で先に投資をしたのが私でして、2014年に投資をしました。どうだったでしょう、2014年の私。3幕1場のサレーリオと同じ。噂は飛ぶんですね。「村口さんは成田から出国したらしい」とか、「仮想通貨で変な詐欺をやってるんじゃないか」とか、そういうことを言われて大変苦しい思いをしましたが、去年仮想通貨がよくなったので復活しました。他には、去年は東芝メモリ。これもシェイクスピア的な観点から、こうあるべきだろうと思って提案をしたら、テレビで取り上げられたものの、私の案は通らなかったという大事件が去年の今頃です。水の投資やロボット案件とかいろんなことを私はやってきました。社会貢献活動で模擬店の事業計画を子どもたちに作らせて出資者を募って会社を作って、販売をやって会計をやって株主総会をやって解散するという活動も私が提案した案件で、東京証券取引所に社会貢献活動として取り上げていただき、全国に広がっています。

茶番みたいなことがいろいろ起こるのが投資、あるいは商売の世界でして、サラリーマンとはちょっと違う世界です。その出発点はすべてシェイクスピアです。これは適当に言ってるんじゃなくて、本当に私の出発点にはシェイクスピアの体験があるんです。ですから、この講座を受けたみなさま、大成功します(笑)

「シェイクスピア以前」、徳島の私

「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」。20歳までの私は「シェイクスピア以前」です。「シェイクスピア以前の私」は、徳島の田舎で生まれました。シェイクスピアを演出するとき、田舎で生まれたのがよかった。自然が豊かなところで、冬の夜になると天の川がブワーッと見える。近くに二十三番札所の薬王寺というのがあって、ここで小野小町が腐っていくという絵姿が怖くて、美人も腐って骨になってカラスに食われて‥‥というのが展示してある。仏教の曼荼羅なんでしょうね。そういうのを見て育って、人間って怖いなあと思いました。田舎の移ろいゆく大自然も、「0→1、1→2、2→3」じゃないけれども、10秒ごとに空の色が変わっていくんです。東京じゃあまり感じないですね。雲が川から海のほうに向かって流れていく。そういうのを体験した。そして、台風が来るとすごいんです。ドドーン、ザーッ、ドドーン、ザーッと、寝てても遠くから波の音が聞こえてくるんです。こういう体験がシェイクスピアの『テンペスト』1幕1場の海の嵐のシーンを演出をするとき役に立ちました。シェイクスピアの芝居の中には明らかに、彼がストラトフォード・アポン・エイヴォンでした田舎の経験、田舎からロンドンに行くこの「0→1、1→2、2→3」の断続的な若い時代の経験が生きていると思います。これは船乗りから聞いた話でシェイクスピアの台詞ではありませんが、「船に乗るんやのうて潮に乗らなあかんよ」と。船に乗るときには、海全体の潮に乗らなければいけない。これは、いまだにそう思います。小学校の思い出をもうひとつ。「浮きたかったら顔を突っ込め」。小学校のときの恐怖の指導です。溺れかかってるのに、どうして頭を突っ込まなきゃいけないのと思うわけです。頭を突っ込まないと体が浮かないんだと、突っ込まれる。このあたりの逆説というか、ロジックもシェイクスピアによく出てきますよね。

だから、1幕1場は「1幕」という止まった1幕じゃなくて「0→1」と、ギャップ、ジレンマ、そこへ移行するストレス、ジレンマですね。壁にぶつかる、それを乗り越えていこうとする。すると、いろんな会話が出てくる。出てきたものの半分は噂みたいな話なんだけど、そういうものが詩になって煉瓦のように重なっていく。それで「0→1、1→2、2→3、3→4、4→0」というふうになっていくのだと思います。

田舎の豊かな人間関係と、ヴェニスの商人のboundbond

東京と田舎の人間関係って、田舎のほうが複雑です。東京の人間関係は、付き合わない人は付き合わなくていい。でも田舎に行くと、毎日のように50人は顔を合わせて、「おーい、元気でやっとんか」に、いちいち答えなければいけない。うちの田舎では「まあまあな」という答え方があるんです。「元気ですか」「まあまあな」、これですべてを語ったことにする。そうしないで、いちいち立ち止まって話していたら、サレーリオ、ソラーニオみたいになっちゃう。複雑なんですよ、人間関係。それから、田舎では物々交換が重要。これは『ヴェニスの商人』を理解するときに重要で、boundの関係というのはbondの関係と違います。bondは「証文」と訳されていますね、日本では。証文というのはマンションを買うときの金消契約(金銭消費貸借契約)です。金利があって返済期日がある。銀行から引き落としになる。引き落とされなかったら、最後は裁判になるというbondですね。

boundというのは関係性だから、「大変なの?」「ちょっと10万足りんで」「ようわからんけど持ってけ。おまえやったらええやろ」と。これは国税にしたらちょっと問題です。贈与なのか、貸し借りなのか? 貸し借りは税金がかからないけれど、贈与には贈与税がかかる。けれど、田舎の物々交換の世界は、「ちょっとカツオ1匹頼む」と言ったら、「しょうがないな」と。一体いくらかわからない。そういう人間関係を人類はずっとつなげてきた。その人間関係をboundという単語で表現していて、そういう商人の世界で活躍しているのがアントーニオ、と私は思っているんです。

アントーニオはバッサーニオに負っています。oweという動詞も使ってますね、負う、背負っている。「君と俺」の関係、政党の中の関係、あるいは何々大学何とか部の関係、いろんな負ってる関係があります。何かあれば寄付するような関係性。それは果たして、借金、貸し借りと言うのでしょうか? 日本人はそういう人間関係が得意ですよね。「同期の桜」とか、そういう契約とかbondにならないboundの関係。それをお互い感じ合っているものが発端となって起こる経済活動。契約がないのは「いい加減」とされるかもしれない。でも、私は13年間、さきほどお話しした上場した会社の社長から資金を回収すると一回も言ったことないです。それが13年かかって戻ってくる。「ありがとうございます」と言われて、「とんでもない。こちらこそありがとうございます」と返す。そういう出資する、される関係。マンションローンの金消契約とは違いますよね。金の出し入れというのはいろいろあるんですが、田舎で育った私はそういうのが苦手で、先輩が後輩に奢るのが当たり前だろうと思ってバンバン奢ってたら、お金があっという間になくなるみたいな、馬鹿な大学生でした。

シェイクスピアとの出会い

中学校のとき水泳の選手で、県大会では1番になったけれど、インターハイにはいけなかったんです。田舎には温水プールがなかったので、夏しか泳げなかった。それじゃ全国大会は無理でしたね。でも、本当に全国を目指した時期がありました。それから、ビートルズに出会って、それがイギリスとの出会いでしたね。私は進学校にいきまして、そこでは応援団。まさにboundの関係です。仕事は、田舎で医者しか思いつかなかったので、宅浪して本を一生懸命読んだ。古典も一生懸命読みました。受験に失敗して2年目は東京に行きました。電車に乗るお金がなくて、朝までウロウロしていたら、八重洲口の交番で職務質問を受けたこともあります。「駿台予備校」と書いたら、「予備校? 無職と書け」と言われて、アイデンティティを失いました。2浪して挫折して、入試科目に数学があったので慶應の経済学部に入りました。医学部に行くはずだったのに、どうなっちゃってんのと。暗黒時代ですね、二十歳前後。仕方なく、友達がいたシェイクスピア劇研究会に足を踏み入れて引きずり込まれて、居ついちゃった、というのがシェイクスピアとの出会いです。おかげで、出口典雄さんのシェイクスピア・シアターを10本ぐらい立て続けに観たり、『NINAGAWA・マクベス』を観たりしました。『NINAGAWA・マクベス』はすごいと思いました。田舎で体験したことがすごくよくわかる。おばあさんが出てきて、1幕1場で仏壇が開く。「ああ、うちの田舎にも仏壇があったなあ」とか思いながら観てると、だんだん入っていって、「怖いな、結婚」って感じ。

私はシェイクスピアはリアリティを書いていると思います。物理的なリアリティは無視しているかもしれませんが、私の話だって物理的なリアリティは無視しています。徳島から東京に飛んだり、時間があっちこっち飛んでいます。でも、私にとっては、今この一瞬が私のリアリティなんです。さっき握り飯食べたとか、朝、あれを見た。午前中、資料を作ろうと思って苦労した、みたいな一瞬一瞬があって、今日皆さんとの出会いがあるわけです。ひょっとしたら3日、4日で『ロミオとジュリエット』みたいなことが起こるかもしれない。今日が出発点になるかもしれない。何が起こるかわかりません。サッカーの試合でも、ロスタイムにその一瞬があればゴールできる。自分にもチャンスはある。やられるピンチもある。人生甘受していくしかない。そういう関係性の中から、どうやってビジネスを組み立てるかを考える。1幕1場のアントーニオは、1艘の船にかけたわけではない。うちもそうなんです。20社ぐらいに投資してある。でも、全滅するかもしれない。わかりません。

学生時代、ガブリエル・マルセルとかアンドレ・ブルトンとか、シュルレアリスムとか、そんなのもかじったり、キリスト教とか仏教とかの経典を読んでいました。聖書に書いてあることのリアリズムや、シェイクスピアの当時のロンドンの人たち、あるいはストラトフォード・アポン・エイヴォンにいる親戚たちの一日一日、一挙手一投足、一瞬一瞬の「0→1、1→2、2→3、3→4」を切り取って表現すると、その背景にあるのは、0、1、2、3、4、5と止まったものが5連発でやってくるのではなくて、全部が動いている。ということは、その背景には聖書があったり、シェイクスピアの親戚や知り合いが宗教裁判にかけられて八つ裂きの刑にあうみたいなこともあったらしいです。河合先生の本に出てきますね。そんな恐ろしいことがあり得るかもしれないと思いながら、シェイクスピアは作品を書いたに違いない。その中には、聖書のことをできるだけたくさん入れておかないといけない。カトリックの解釈、新しいプロテスタントの解釈、国教の解釈もちりばめて、それを道化が茶化したりして、最後は国王に気に入られるような芝居にもなっているという作り方ですね。

シェイクスピアの劇を演出する、あるいは読み込むには、人類の歴史そのものの背景も深く読み解くと面白い。シェイクスピアの芝居は科学的論文みたいに書かれてはおらず、ここで弦をビューンと鳴らしたら、あっちもブーンというような、背景でハウリングするような音が鳴っている。1幕と2幕と3幕と4幕と5幕でわざと同じようなキーワードを使ったりするんです。私の解釈ですけどね。『ヴェニスの商人』の中では、bindboundbond、同じように聞こえる三つの単語が出てきます。bondといったら、シャイロックが「アントーニオ、俺はこのbondを持ってるぜ」みたいなことを言い、一方、ポーシャやアントーニオの世界では「やっぱり誰それに借りがある」とか、「親戚のおじさんに足を向けて寝られない」みたいな台詞があって、それが人生を制御している。後半でまた『ヴェニスの商人』をひもときますけど、bindboundbond、この三つで広がる世界を理解することが重要ではないかと思います。

シェイクスピア劇は人生の限界状況、ジレンマの瞬間、何から何へ移るのかを描いている。今日も何を話そうかな、何をカットするか、解答がないのはジレンマです。その瞬間瞬間のリアリティが時間を織りなしていくわけです。しかも、それにある人が反応すると「そうかな」と思ったり、こういう人がいたら「こうかな」と思ったりするわけですね。ヒューマニズムのライブを表現する最高のメディアと思ったらいいのかな。解のある単語集ではなくて、単語、あるいは役者、および芝居というメディアを見ると、それらを通じてボヤーッとでも宇宙全体を感じ取れるようなものになっている、ずるい芝居構造だなと思います。この広い宇宙の膨大な単語、人類の生き方やジレンマ、この瞬間瞬間をモザイク的に切り取って、5幕で構成して、引きずり込んでバーンと示すみたいに。それで、エピローグという帰り方も準備してあって、「はい、これで魔法の杖終わりまーす」みたいな感じで、「さよならー」みたいな。まあ、そういう単純な終わり方はしないけれども。だから、船が帰ってきた瞬間にすべての謎が解けるような仕組みになっていたり、指輪が戻ってきたりする。ポーシャの指輪はbondの一つの表象。人と人とがエンゲージドするための表象です。こういうふうに私はシェイクスピアを見るようになりました。

なぜシェイクスピアが歴史に残ったのかについての私の見解はそこらへんから来ていて、社会的には、アングラ(アンダーグラウンド)とオングラ(オングラウンド)——オングラって私が作った単語かもしれませんが、上のグラウンド——そのどちらでもない、ちょうどいい位置にいる。これはシェイクスピアの癖だと思うんですけど、ストラトフォード・アポン・エイヴォンからロンドンに行ったのもそうなのか、あるいはテムズ川を渡ってグローブ座を川向こうに作ったのもそうかもしれないけれども、「ちょっと真ん中を外している所」から人生や社会の本質を見る。まるで日本の神社みたいに。真ん中をちょっと外すみたいな感じで、「サイドグラウンド」っぽい位置から全体を観察しながら、宇宙というか聖書世界というか、あるいは人間学の中に投影していると思うんです。シェイクスピア劇は、素晴らしいコンテンツを多様なまま映すメディアになっているところが凄いのかもしれません。

水泳の選手になれず、医者にもなれず、医学部も諦めて経済学部に行って、シェイクスピアの芝居をやるようになった私だけれど、人間活動のすべてを能動的に受け入れる覚悟があのとき確かにできました。人類がやってきたことは、それがいいことであれ悪いことであれ、価値観を挟まないで全部事実として地球上で起こったものとして受け入れるという覚悟みたいなことです。シェイクスピアと接して、演出しなきゃいけなくなって、それが突きつけられたと思います。

地理とか時代とか組織とか立場とか常識とかを超えて、起こったままを受け入れて、それを再構成する。愛情を持って人のことを全部受け入れて再構成する。そうしないと劇が生きてきません。どこかにねじれた非活性な部分があると、観客の人は眠くなってきます。生き生きとしたものでなければいけないということですね。

ゼロから1へ

偶然あれ何であれ、何かを演出するにはイメージがないと始まらない。その最初の何らかのイメージ。みなさんもそうなんです。生きている限り、今ここにいらっしゃるということは、何かイメージを持っていらっしゃっていると思うんです。なんとなくでもいいし、明確なイメージでもいいし、偶然でもいい。その取っ掛かりがあって、そこから次へいく、ゼロから1へいくわけですが、それって何なんだろうと、よく考えました。

シェイクスピアの芝居は1幕1幕の入り方が、突然、「どういうわけだか憂鬱なんだ」っていう謎かけや事件で始まったり、夜中に亡霊が出てきたり、得体の知れない時空間に入って、そこから謎解きをしていくみたいな、そんな感じがありますよね。とにかく、舞台を作るということになったら、やっぱり芝居の、役者の体というのもあるし、役者同士の人間関係もあります。役者同士の人間関係って観客に以心伝心でバレたりしますよね。サレーリオの噂話もそうですけれど、台詞というのはそのまま信じちゃいけないんです。信じるものとしてシェイクスピアは書いていない。会話として書いている。独白は独白として書いてある。でも、独白も、己自身に騙されるということもあるので、非常に屈折した独白もある。ランスロットの独白もありますね。バッサーニオについたらいいのか、シャイロックについたらいいのか、「選択」ですね。これが『ベニスの商人』の、もう一つのキーワード、「選択」。ちなみに経営って、毎日選択しなきゃいけないんですよ。私も今日たぶん、50ぐらい選択しています。

シェイクスピアの芝居で考えるのは、「人間の因縁は改善できるか」という宗教的なテーマ。あるいは人生訓的に「人生の因縁は改善できるか」といってもいいかもしれません。それがやっぱり当時、観客にあったような気がするんです。すなわち、なんで悲劇になっちゃうのか、なんで喜劇になっちゃうのか、喜劇のようでも悲劇になって人が死んでしまう芝居と、悲劇のように進行していくにもかかわらず、いろんな偶然が転んで、喜劇で終わってしまう芝居。その構造は一体どうなってるのかと。だから、「0→1、1→2、2→3……」の構造にも、悲劇的構造と喜劇的構造があるという感じがするんです。

それって経営論そのものです。経営戦略によって、ある会社を創業して成長させてハッピーにする、そのハッピーにするための経営学とは何かというと、会社がよくなればコンサルタントとしていい経営コンサルタントになるだろうし、そうなる会社を買った人は投資家として成功する。それが逆さまにいった人は、地獄。二度とコンサルティングの世界には戻ってこられない。これは何かといえば、やはり、その「0→1、1→2、2→3、3→4、4→5」ぐらいの多次元で複雑な立体的人生の構造という話になってしまう。

大学時代、悲劇の構造、喜劇の構造を現在の東京にリアリティをもって、シェイクスピアというメディアを使って再現してみたい、クリエイトしたい、そんな発想でやりました。福田恆存氏とも会いました。当時、私が演出したときのエアリエルは、ソニーでいちばん若い女性の執行役員になりました。エアリエルやっといてよかったですね。何かを1週間ぐらいでなんとかするっていうのは『ロミオとジュリエット』の発想ですね。「愛と希望と自由」とかいうテーマを掲げて『テンペスト』の演出もしました。六本木の自由劇場でやらせてもらいました。慶應の美術部にタダでポスター描いてもらった。

bondは契約、boundは人間関係性

原文に当たるとわかることがいろいろありますね。あとでもちょっと見ていきますけれど、翻訳の先生は翻訳の先生で、日本語という制約の中で仕方なくbondを証文と訳していらっしゃいますが、証文と訳した瞬間に、借金とか、負ってる、という日本語が音の関連が相互に響かないので、bondboundbindという劇の中の相互に強く関係しているというハウリングの関係が切れちゃいますよね。シャイロックが、「俺はおまえのbondを持ってるんだ、bondを持ってるんだ、bondを持ってるんだ」というふうに畳みかけるシーンだとか、契約で縛られるbondと言えば言うほど、bindで縛られていく。一方でboundな人間関係がヴェニス社会の中で、クロスして構造として浮かんでくる。こういうのも重要だなと。

あるとき、シェイクスピア研究会の合宿に行って、先輩に「おまえ、将来何になるんだ」と聞かれて、「芝居で食っていきます!」と言ったら、「おまえの田舎は大金持ちか」と聞かれたので、「貧乏です」と言ったら、「やめろ!」と言われて、「えー? 芝居、食えないんですか」と。知らなかったんですね、芝居が食えないと。そこで私は、「またか」と。浪人もしたし、留年もしたし、私の人生はどうなってんだろうということで、急に経済学の勉強を始めました。アダム・スミスの『国富論』とか、ミルトン・フリードマンの『選択の自由』とかを読んで、人類全員がシェイクスピア劇的な人間だとすれば、結局、シャイロックとか、サレーリオやテューバル、いろんな連中がいる市場の中で経済活動がどうなっていくかだとわかったので、シェイクスピアをやったあとは、経済がえらく得意になっていました。資本の意味とか、変化はネガティブでなくポジティブに捉えるとか、既存の組織は難攻不落ではないとか、経済社会は移ろいゆくとか、「当たり前やんか。シェイクスピアもそうだもんね」と思った。現在をシェイクスピア的に疑ってみる価値があるなと。そう思いながら、高橋潤二郎先生のゼミに入りました。経済学の教授なのに、シェイクスピア劇を演出してるというと喜んでくれました。慶應の湘南藤沢キャンパスを作った立役者がこの先生なんですが、そのときに相談を受けて、私は「0→1、1→2、2→3、3→4」みたいな感じで、「まったく新しいものを作ればいいんじゃないですか?」みたいなことをアドバイスさせてもらいました。

とにかく未来に投資するということで、大方針として自立するということ、それから、考えたら行動するということ、それから、損得じゃなくて善悪で考える。これはシェイクスピアから学んだことですね。損得はあと。善悪で行くぞと。善悪で行けばそのあと必ず、アントーニオの船は、5幕1場で?

受講生:帰ってくる!

帰ってくるね!もうあとの講義が要らないですね。みなさん、その肝心な点がわかってるんだから、もう成功しますよ。シェイクスピアを理解してから経営勉強すれば鬼に金棒。未実現な未来を実現化するように、make things happenに持っていけばいい。ストーリーがすぐには描けなくても、「0→1、1→2、1→3‥‥」という複雑骨折でもいいと。それが未来に必ず2年後、4年後、7年後ですね、その倍数の14年後にやってくるわけです。それを受け入れるように持っていく。人生を組織人の計画性の頭で、理屈でばかり考えると、向こうからチャンスがきても、受け入れられなくなっているんですね。そこに向かって体を開く。体を開いて、5幕構成で自分の目の前にやってくる変化を受け入れていく。しかも、喜劇的な受け入れ方をしなければいけない。ときどき茶化しながら。それをテーマにメディア化して構成したのがシェイクスピアの芝居だと私は思っています。そして最後に、試行錯誤で成功したら、劇のエンディングのように、必ず世の中に還元すること。シェイクスピアを理解することにはいろんなことが入っている。そういうことを参考にしながら、後に、ふるさと納税も提案しました。

学生時代ですが、結局、自分は誰なんだろうかということで、ベルリンの壁が崩壊する7年前、あ、これも考えれば7年前、7ですね、私は中国がひょっとしたら資本主義化するんじゃないかと思って、そのとき職業として発展するのがベンチャーキャピタルだろうと考えたわけです。出来上がった会社に投資をするのは別の投資家がやるから、私はゼロから立ち上がるところだけに投資する投資家としてやっていけば、世界で活躍できるんじゃないかと思っていたんですが、まだ日本にいますね(笑)。結局、シリコンバレーに行ってみようと思ったら、教授に「タクシー走ってませんよ。免許取りましたか」と聞かれて、「芝居ばかりやってて免許を取る時間がありませんでした」と、2週間突貫スクールに入って免許を取って、サンフランシスコ空港に着きました。そして、ベンチャーキャピタリストと会って、それで、「アイ・ケイム・フロム・ジャパン」と。「アイド・ライク・トゥ・ビカム・ア・ベンチャーキャピタリスト」。受験英語で、「ホワット・ドゥ・アイ・ハフ・トゥ・ドゥ・トゥ・ビカム・ア・ベンチャーキャピタリスト?」みたいなことを言いました。いろいろ言ってくれるんだけど、聞き取れないんですね、速すぎて。ただ、「human understanding」と言う人がいて、人間理解といえば、シェイクスピアですね。ここはやっぱり過去完了かなと、「アイ・ハド・ダイレクティッド・シェイクスピア・ドラマ・イン・ケイオウユニーバーシティ」と言ったら、その人が「That’s it」。That’s itはシェイクスピアにはないが、駿台予備校で「そのとおり」と訳せると習った。「じゃ、いいんや」と思って日本に帰って、私はベンチャーキャピタルの組織に入ったんです。

シェイクスピア劇を誕生させていくように、広い社会の中から新しい会社をどんどん起こしていけばいい。そのイメージはできたんです。でも経済的に自立できないので、いったんサラリーマンになったんですけれど、上司といきなり衝突。「おまえはここへ行け」と言われて、行って話を聞いても、つまらんわけです。「おまえは言うこと聞かん」「いやいや、私はベンチャーキャピタルをやりたいんだ」と。当時まだベンチャーキャピタルはなかったんです。それで、2つばかり東京で成功したあと北海道に転勤して、原野のような北海道でゼロから会社を起こしていった。サレーリオ、ソラーニオみたいな人たちが言うわけです。「北海道から上場会社は十数年出てないから、投資しても上場会社が出るわけがない」と。私は「いやいや、十何年出てないからいいんだ」と。十数年といえば『テンペスト』。待ちに待った十数年の一日が今日かもしれない。「社長、やりましょう!」と。「うち会社ちっちゃいんだ」。「いいんです。これから発展させられれば」ということで、どんどん説得していった。日本に実はお金いっぱい余ってましてね、bondの世界でいうと。日本には250兆円余ってるんです。その話は時間がないので飛ばしますけれど、「地方の時代ですよ」と北海道で会社を発展させることに傾注したところ、北海道モデルができて、結婚もして、10社ぐらい次々上場に成功しました。

スタートアップというのは困難がつきものなんです。これもあとで『ヴェニス』のところでやりますけれども、まともな投資をゼロから未来に向かってやろうとすると、未来は未然形ですから。ジュリエットにとってロミオは未来。お互い全部未来。未来は不確実でわかりません。未来のことに取り組むロジックを、だいたいの人は批判します。「そんな前例ありましたっけ」、「いいアイディアだと思う。でも、やっぱりよく考えたほうがよくないか? 次の人事異動で俺がちゃんと取り上げてあげるまで待って」みたいな。で、人事異動になるとやっぱりできない。進むのはまともな案件よりも、トレンドになっているファッション案件ですよ。ネット社会だといったらネットみたいな。私はそれよりも常に7年早いところを狙っているので、いつも早すぎて批判されます。けれど7年経つと私がやっている案件に波が来て、反対していた当人が「やっぱりおまえ、よかっただろ。俺がアドバイスしたとおりやったやろ」と、後出しじゃんけんで、何回も言われました。えー? 話が違うぞ(笑)。まあ、それが世の中ですよ。

東京転勤で最初に投資したのが、萌え系。これも批判されましたね。当時、萌え系という単語がなくて、神楽坂のディスコに、とある総合研究所のネクタイを締めたお偉い人たち4人を連れていったんです。コスプレで200人ぐらい踊ってる真ん中に。「村口、何ちゅうとこへ連れてくるんだ!」と、えらい怒られました。けっこう投資するはずが反対が多くて200万しか投資させてくれませんでしたが、5年後にはちゃんと上場しました。日本で、萌え系で初めて投資して上場したのは私の案件です。

「直感で投資します」

そして、もういい加減会社を辞めよう、古い組織を去ろうと思いました。みんな、人が作ったルールのとおりに実行することに集中していて、新しいルールがやってくる未来に向かって開くことに鈍感過ぎると思いました。みんなは私のことを鈍感だと言い、私はみんなを鈍感だと思う。ちょうど山一証券が破綻もするし、もう辞めよう。働くことはサラリーマンをやるだけじゃない。広い社会の中で活躍して収入を得るという働き方があるんじゃないかと。ある意味、サラリーマンという雇用契約を結ぶ働き方はbond、シャイロック的な世界かもしれない。アントーニオの世界は、未知の未来にかける起業家の世界かもしれません。まあ、そんなことも思って会社を辞めました。それで、新しい独立個人型のベンチャーキャピタルファーム=事務所を作って登記したら、日本で初めての登記になって新聞などに取り上げてもらいました。そのとき、京都の堀場製作所の堀場さんと話しました。「どうやって未来の案件を審査するんだ」と聞かれて、「審査はしません」と答えました。「審査せえへんの? どうやって投資すんの?」と聞かれて、「直感で投資します」。すると、いきなり険しい顔になって、「うーん、うーん、うーん」と唸ったと思ったら、10分経って、「それや!」って堀場さんが私に言いまして、出資してくれたんです。あとから、経済産業省の人が言いました。「あのドケチの堀場さんがよくお金を出しましたね。村口さん、ご親戚か何かですか」。これもシェイクスピアの台詞にありますよね、「親戚のバッサーニオがやってきたから、俺たち、失礼しよう」みたいなのが。不思議とつながるんですよ、『ヴェニスの商人』と。

ということで独立して、DeNAに出資をして、DeNAの苦労があって急に金持ちになって、ふるさと納税をやって、別の創業会社でも苦労して、何回も何回も破綻しそうになりながら、なんとか上場しました。それで、2周目、3周目を投資する中で、やっぱり社会に還元にしようということで子どもを対象とした起業体験プログラムを始めました。学園祭という場所だけ与えるから、やることを自分たちで決めなさい。計画を持ってこいと。それで、プランがよかったら出資するというプログラムで、子どもに楽しく模擬店事業の決算書作らせて、株主総会もやらせます。この間、いろんな失敗もありましたし、リーマン・ショックもありました。去年は母が死にまして、息子が結婚しました。現在の自分はいろんなことを定式化して創業期をいかに非連続的に向こうに向かって開きながら、大雑把とかいい加減ではなく、大きく開いて受け入れていくかを考えている。細かいところ、箸の上げ下げまで言わないで、アントーニオ的な契約で処理するということで、おかげ様で今やってこられています。堀場さんは「面白おかしく」というふうに言いました。喜劇っぽい話ですからね。前半部分はこれで終わりにして、休憩を挟んで、『ヴェニスの商人』の読み込みをしたいと思います。

リアルなジレンマが描かれている

『ヴェニスの商人』、みなさん読まれましたかね。けっこう読みにくいというか、従来の「人肉裁判的」に読もうとすると、余計なところがやたらにありませんか? たとえば「箱選び」は非現実的だし、よくわからない。最初のアントーニオのシーンや、ランスロットの登場も。前半で言いましたように、シェイクスピアの芝居は、シーン同士が響き合う効果を狙っているように思うんですが、『ヴェニスの商人』ばかりはバラバラのままな感じが私も学生時代にありました。それをどうやって一本通せばいいのかと考えました。しかし、シェイクスピアの芝居である以上、上演される劇として書かれたはずで、聞いてわかりやすく書かれたはず。観客にとって最も面白くなるように工夫されていたはずで、無駄な部分なんかないはずなのに、なぜ無駄な部分があるように感じるんだろうと。リアルなはずだということは、それがリアルなジレンマになっていると私は思うんです。どんな観客が見ても納得がいくようになっているはずで、相互に連関しているはずだと。

これは私はシェイクスピアの歴史から感じていることですけれども、書き手が処刑されないように工夫されている。だから、問題にならないように最低限の配慮はしているなというのと、前半で話をしましたように、聖書が一番よく読まれているならば、それを活用しない手はないということ。私が、みんなが見たサッカーの試合の話をすればウケるなと思うのと同じようなことを、シェイクスピアだって言ったわけです。相手に伝わる表現を使うことで、みんなに入り込みやすくなるわけですから。

そう考えると、単語数を数え上げるのがひとつの有効な方法かな、と考えました。インターネット上に『ヴェニスの商人』の原文があります。それをダウンロードしてきて、Wordに貼りつけて文字検索をすれば単語数が数えられる。すると、boundbindbondのうち、bond41回登場します。companyが7回。「仲間」みたいな意味で出てくるんですけどね。debtが1幕1場で出てきます。バッサーニオとアントーニオが2人で話すときに、言いにくいことを言うわけです。「借り=debt」をなんとかしないといかんと。これ、私が過去に読んだ訳もそうですが、「借金」をきれいにしたいと書いてあるんですが、私の解釈では、「借金」はちょっと現代風にすぎると思います。思い出していただくと、徳島の田舎では、カツオが獲れたら1週間カツオだらけ、1週間トマトだらけという、親戚の中での物のやりとりがあって、誰がどこにどれだけ貸しがあるのかわからない。死んだときに何をどう相続していいのか、さっぱりわからない。そういう世界では、これを「貸し借り」とは言わないんですね。友達にもちろん貸すけど、共有して使う感覚ってありますよね。シャンプーを共有するのを、10%で貸すとか、期限は1週間とか言いませんね。でもそれが溜まると、「なんとなくあの人にはちょっとdebtを感じるんだよね」となる。

私は何億円かやりとりをする投資家になりまして、今日も電話がありました。「7500万足らない。どうにかならない?」。そう言われたら、こっちも「うーん、7500万。ちょっと今、無理ですかね」。「貸す」とも「借りる」とも言ってないんです。出資するとも、借りるとも、いつまでとも言わない。今のはちょっと桁が大きいかもしれないけれど、みなさんも、家族の中での何百円とか何千円とかいうやりとりは、「まあいい」みたいな話だけど、気になるときは気になりますよね。あの感じ。それがdebtです。商売でも、買受金とか売掛金。何かを納入したときにそれの決済が1週間後に迫っていても、金利つけたりしませんよね。debtはもちろん借入も含むんだけれども、必ずしも借入じゃないものもdebtと言う。どうもアントーニオは、人間関係をベースにした資金の融通のし方を美徳としている投資家であるように私は感じるんです。そうすると、この1幕1場で小田島雄志先生が、「今まで湯水のように金を使ってきたが、もう切り詰めて未練はない。だが、一番気がかりは、どうすれば大きな借金からきれいにこの身を解き放つかだ」とdebtを借金と訳しているところ、私は借金じゃなくて、別の日本語訳がないのかなと思うんです。バッサーニオもアントーニオも、いま日本にいたら、普段、借金という単語はダイレクトには使わないのではないかと思うんです。借金と訳したらビジネスライクになっちゃうが、日本ではずっとそう訳して来た。何か工夫できないか? 13場で出てくるbondは、歴史的にいうと、「商品化された貸し借り」の表現で、現在でいうと金融商品取引法というのがありまして、私自身も金融商品取引法の業者として金融庁に登録してあります。これは現代の金融商品取引法という法律が整備されたあとの話であって、つい最近の話です。インサイダー情報の規制とかも、ここ15年くらいです。それぐらい金融商品を取り巻く法整備は最近のことでありますが、bondというと契約がもともと厳格なんです。いわんやシェイクスピアの時代をや。

もうひとつのキーワード「選ぶ」

『ヴェニスの商人』には、とにかく「choose=選ぶ」っていうのがたくさん出てきます。私も投資先を選ばなきゃいけません。毎日のようにいろんな投資してくれという話がやってきます。そもそも商売は選ぶのが基本です。誰と付き合うか、どんな商売をやるか、誰に売るか、いくらで売るか、選ぶ。それが運になったり、財産になったりする。

bondは、もともと金のやりとりのある人間関係性をboundと言ってたんだけれども、それを商品にしたものがbond、現在でいうところの社債とか国債とか債券とか、これは今でもbondといいます。bondのように商品化されたものと、それとの人間関係性をいうものと、選んで幸福になったり不幸になったりするという単語が芝居の中にいっぱいちりばめられている。

シャイロックが2幕5場で、「ファーストバインド、ファーストファインド(Fast bind, fast find)」=「しっかり締める、しっかり貯まる。倹約家にとっちゃ古びない諺だ」というふうに言っている。この「締める」というのは、やはり経済の中で、商売の中で、非常に重要だと思います。ただ、それをbondで締め上げるか。くっつける「ボンド」のbondですよね。bond=債券、契約で締め上げるか、あるいは正しい人間関係で強く訴えるか。シャイロックが言う諺は正しくて、シェイクスピアも肯定してると思います。ただ、この締め方が間違ってる。シャイロックの締め方とアントーニオの締め方。主人公は誰か? アントーニオです。シャイロックではないですね。何よりも契約の元にあるboundの関係こそ重要だ。少なくともシェイクスピアはそういうふうに書いたはずだと思います。

資金が不足したとき、人間がどうするか6つの方法があるんです。これは金融論には書いてありません。実際に経営をやってみたらわかる。ひとつ目、あげる。「10万円、持ってけ」と。国税庁が贈与として課税してくる危険性があるので、100万円以上の「あげる」はちょっと注意しないといけません。2番目、仲間として資金を契約なく融通する。「大変なんだろ。100万円融通するわ」と。返さないことが暗黙の了解になっている場合と、金があるとき返してくれという場合とあります。困った仲間に融通するという感じがアントーニオの世界の古いベニス社会ですね。3つ目、分配を前提とした出資。株式に代表されるように、これを持っている人は経営権もあって株主総会にも出席できるし、利益が出たら利益の分配を受けることができる。パートナーシップですね。失敗したら損失も分配。親戚が会社を始めるといったら出資してあげるのが、3つ目のお金の出し方。4つ目が、金は出すけど貸付金にするから、ちゃんと契約して金利を付けて、担保を付けて返済期限も決めて、ここへ振り込むというのをちゃんと決めましょうねという金の出し方。5つ目の出し方は相続。親父が死んじゃったので財産が転がり込んできたみたいな。6つ目、何だかわかりますか?

 受講生:盗む。

村口:ピンポン! 盗む。以上が金の移動の方法です。シェイクスピアはわかってるというか、われわれだって毎日そうやって気をつけながら仕事しています。さきごろ、コインチェックが580億円盗まれました。あれで仮想通貨の世界は大混乱になりました。だから、この6つの方法にしても、それぞれ流儀と性質があるわけです。

boundというのは、誰が誰にboundしてるかが問題になります。4幕1場でデュークがアントーニオに対して、「アントーニオ、おまえ彼に負ってるよね(you are much bound to him)」と言う。そして5幕1場でバッサーニオがポーシャに対して、「この人がアントーニオだ」と紹介する。そして、「この人にはboundだ」と言うわけです。boundの関係というのは、誰かが誰かに負っている関係で、それに金が絡むとdebtになる。たとえば落語家一門の人間関係とか、サッカーのセットプレーをする関係も似てると思いますね。契約じゃなくて、瞬間的・直感的な処理。心の中の強い絆のようなものです。

アントーニオの投資哲学

私がおもしろいと思うのは、1幕1場でboundという単語を使っていて、debtという単語を使って借金とは言ってないのを受けるように、1幕3場になるとシャイロックが、Antonio shall become bound, well. と言うんです。これまでの日本の翻訳では大体、「アントーニオが保証人、なるほど」みたいな訳し方になってるんですけどね。私の解釈で読むと、それまでbondの関係しかやらなかった人がいきなり、「bound? 私を仲間に入れてくれるの? 私、セットプレー入っていいの?」そんな変な感じ。シャイロックからすると、あり得ない幸運がやってきた感じ。そんなふうに思える台詞なんですね。だから演出案としては、1幕1場で「借金」ではなく、「負う人間関係」をうまく演じてもらって、それで、1幕3場で(人間関係の外にいる)シャイロックが出てきて、「アントーニオ、え?私をboundしてくれるの?」みたいにすればいい。そして、アントーニオとやりとりがあって、アントーニオが、「利息付きでは俺は金の貸し借りはしない主義だ」というふうに言って、これまではそんな日本語訳になっているんですけれども、私はそれを「金の貸し借り」とも言いたくない。せいぜい「利息を付けることはおろか、それを借金とかbondとか言って生きてきたつもりはない」(新訳)とでもしたい。アントーニオはもっと生きる姿勢の差を強く言っているように、私は感じるんです。

1幕3場の前半に、シャイロックに「お金を出してくれるのか、くれないのか」と言うシーンがあって、途中でシャイロックに「私は金を貸すにも借りるにも利息のやりとりなどしたことはない。だが、友人の急場を救うためだ。いつもの流儀は捨てることにする」と宣言する。これがものすごい宣言なんです、私からすると。芝居の途中まで、そういう金のやりとりは絶対しないと言っている。しないというのは意固地で言ってるのではなくて、これまで、「美しくない」「そうあるべきでない」、人と人の関係、人生の理想を実践して来たのに、それで捨てると宣言するのですから。なぜ、そうなっちゃったのか?

1幕1場の最後に、アントーニオが「ヴェニスの町の中で、『俺のクレジット』がどれだけモノを言うか、一緒に行こうじゃないか」というふうに言う。そして、1幕3場でアントーニオが出てきたときに、なんでシャイロックのとこに来るわけ? おかしいでしょと思うけれど、これがギャップでありジレンマなんですね。今だったらフェイスブックなどSNSですが、もし人間関係が「いいね」1発1万クリックで3000回、3000ダカット、ぼんぼんぼんと集まればいいはずなのに、なぜか1幕3場でそうならなくて、しょうがないからシャイロックのとこに来たわけです。私からすると、これがドラマです。なぜかというと、そういうことってあるんですよ、実際に。ヴェニスの街でアントーニオは干されたわけです! 1幕3場で結局、シャイロックに借りざるを得なくなって、いつもの流儀は捨てるという大宣言をする。ということは、その前のところはboundだけの世界の日本語に訳しておいてほしいんですね、本当は。boundの関係でずっときて、それで、大宣言をしたところで流儀を折るわけです。だから、それ以前のもともとのアントーニオは、borrowlend(借りると貸す)、そういう単語を避けているように私は感じる。ちなみにアントーニオの台詞で言うと、劇の最後に、lendという言葉を使う。これは私はシャレだと思います。最後にアントーニオが冗談めかして言うんです。冗談めかして訳されていないんだけど、アントーニオは方針を破ってお金を借り、人肉裁判でえらい目に遭い、そこから命からがらポーシャに助けてもらって、5幕1場でベルモントにやって来た。そこで最後に冗談でbondの話をするんですよね。そこは、あとでまたやってみたいと思います。

3幕3場、シャイロックが騒いでるシーンだけど、I’ll have my bond.と連呼するんです。「あんたは何も言えないぞ。俺はbondを持ってるんだ」と言う。彼にとっては証文だけが主人公なんです。商品化されたbond、契約がモノを言う。一人歩きしちゃってる。3幕3場の非常に特徴的なシーンです。バッサーニオがその直前のシーン3幕2場、箱選びが終わったところで、実は私はアントーニオにdebtを負ってるんだと。今回ばかりはboundなんだけれども、そのboundした相手であるアントーニオがこともあろうにシャイロックにboundして、bondを取られちゃった、こういう関係で、そのことを告白するシーンです。そのときにバッサーニオは、The ancient Roman honor more appears、ベニスの時代よりももっと古い、古き善きローマの誇りみたいなものがアントーニオには現れてるんだと言います。私は歴史家ではないので、ローマの誇りがどんなものか知りません。誇りで商売になるのかという疑問がありますよね、まず第一に。「きれいごと言ってていいのか」と日本でも言いますね。損得を計算し尽して商売というのはできているんだと。それをその、そうじゃない誇りが現れていると、バッサーニオは商人アントーニオのことを表現する。

もう一つの伏線として、この芝居の中でventureという単語が何回か出てくるんです。1幕1場からいきなり出てくる。当然、ventureに投資をするというのは、うまくいく場合とうまくいかない場合とある。うまくいった場合も不確実性は残る。うまくいかない場合は、人とつながらないと大体うまくいかないんです、商売って。間違ってうまくいく場合もあるし、幸運みたいなものもたまにはあるんですね。だけど、長い時間ビジネスをやってる人がみんな言うのは、私は4年ごとに好況と不景気がやってくると言ってるんだけれども、それを二山、三山、四山抜けていって、しかも発展するには、やっぱり人とのつながりをきちんと作れるビジネスマンじゃないと会社は大きくなっていかない。しかし、いろんな不確実性がビジネスには関わるので、うまくいく場合といかない場合があります。ventureというプロセスは、契約で全部縛ると皆さん思うかもしれませんが、商売って契約で縛り切れないんです。なぜなら商売は、不確実で未知な事象を含まざるを得ない。商行為は契約行為なんだけれども、それを全部明文化して契約化しきるのは無理なので、契約になっていない商売の関係を大切にできないと、そこから綻ぶ危険性がある。だから、やはり人と人との関係をマネジメントしておかなければいけないという話につながってきます。私みたいな長期投資家の基本になっているのは、投資家ウォーレン・バフェットも言ってる考え方ですし、人類がいろんな投資理論を開発してきましたけれども、どれを読んでも最後は、人間対人間との関係を非常に重視します。

次に箱選び。これ従来、「箱選び」と翻訳してるんですけども、原文はlottery。くじ、福引きのことらしいです。箱選びで夫を選ぶというと、なんとなく通ってしまうんですけれど、福引きくじで夫を当てる、といったらリアルじゃないですか。「そんなことしていいの? お正月の福引きで夫選びして大丈夫?」と思いますよね。シェイクスピアは、そういう単語を使っています。シェイクスピアの時代でも、lotteryというとワッという感じがする単語だったと思います。船のventureにかけるその福引き加減。私がある会社に13年3か月前に投資して上場したことと、正月の福引き袋とどっちが確率高いのというぐらい、13年も経ったらわかりませんよね。ただ、人間関係がきちんとしていれば、13年経っても残るんです。ところが、我々投資家の世界の常識の契約関係は大体10年、その10年に形式に縛られてこだわり過ぎていたら成功しなかったことは明白。長い時間が経っても永久に残る大切なもの、それがローマのhonorではないでしょうか。当時、ローマのhonorがなくなっている時代、最後にヴェニスに残っていた勢力であるアントーニオの「勝ちパターン」、それを「The Merchant of Venice」というふうに表現して、1幕2場でいきなりlotteryが出てくる。しかもlotteryのところで、ビジネス的台詞をポーシャが言ってます。「いいことをするのと知るのとが同じくらい簡単なら、小さな礼拝堂は教会になる」。小さな礼拝堂は教会になるというのは、小さな寿司屋が巨大な寿司屋になる、大成功するってことですよ。それぐらい、いいことをするのは難しい。そして「貧乏人の小屋は王様貴族の宮殿になる」とも。「0→1、1→2、2→3‥‥」のルールがわかっていれば、小さな小屋みたいな家だって王様貴族の宮殿になるということをポーシャは言ってるんですね。そこでlottery。お父さんは一体何やと。福袋に私の肖像画を入れるの? それで引いた人に嫁がなきゃいけないの? 頭おかしいんじゃないかと普通思うじゃないですか。だけど、たぶんポーシャは大金持ちですね。その財産は誰が作った? 容易に想像がつくのは親父。親父どうやって商売して富を築いたんだろうって思いますよね。私の解釈では、たぶん、ポーシャの親父もローマのhonorを持っていた(重要人物)。シェイクスピアがThe Merchant of Veniceと表現をした、「ルールの体現者」の一人として描いている気がしてならないんです。その人が、なぜlotteryで、娘の夫を選ぶようにしたのか?ということです。

「株でビジネスに出資するbound」対「株に投資するbond」。ちょっと意味わかりにくいですね。たとえば証券取引所で買う株は二次流通市場(セカンダリーマーケット)株です。われわれ投資家が買う株は、経営者に資本が必要なとき、株を発行させて(プライマリーマーケット)数億円ドーンと入れるんです。それで種銭(たねせん)にしてビジネスを育てていくんですね。だから、一つは株を道具として使ってビジネスに出資するというマインド。もう一つは、株を安く買って高く売る=株を投機の商品として考えるマインドと、株投資の世界にも二つあるといわれています。アントーニオ的な感覚からすると、bondになる前のboundの関係でお金を出すという、相手が困っているからお金を出す。bondは、bondが安ければ買って高ければ売るという、そういう感覚。シャイロックの世界では。それが二つ相対してるんだ、というふうにシェイクスピアは前提として書いてるなというふうに私は思えるんですよね。

ビジネスというのは不確実なので、必ずしも果たされません。もし出資して果たされなかったら、「痛かったね」で終わりです。けれども、bondで資金集めて失敗したら、それはもう裁判です。返さなきゃ抵当を持っていかれるんです、契約通り。血も涙もない。ベニスの法廷も許さないわけです。ルール違反を認めることは、契約のルールそのものがなくなっちゃいますから。シャイロックの世界はbondの世界で、ベニスの商人の世界はboundの世界とわかりやすく言いましたが、正確に言うとそういう図式ではない。ベニスの商人仲間の中でも、古きローマ時代のboundの世界と、新しい商品bondがやってきた世界とが混在していたわけです。その混在した一方が、サレーリオとソラーニオ。他方、ローマのhonorを持っているのがアントーニオ。一幕一場で、違った精神を持つ彼らが会話をする。だからこそ、不思議なシーンでね、ジレンマですね。そうやって『ベニスの商人』はスタートするんです。

そして裁判になるとどうなるか。裁判は、訴える者と訴えられる者が自説を主張し合うわけです。変なことでも、ねじ曲げてでも。シェイクスピアの中でジレンマになって観客に与えられる情報の解釈が交錯するのが、まさに裁判のシーンなんですね。ちなみに私、いま、実は被告人なんです。東京地裁で。だからこそ分かるんです。ある投資先で2011年に起こった事件で、中国の企業から訴えられて、一生懸命反論しているんです。証拠つきつけて、ちゃんと言い返す。そんなことを今でも、シェイクスピアの時代と同じように、世界はやってるんですね。

だから、裁判と、箱選びと、投資と、金の貸し借りと、契約と、負う負われる関係と、指輪、つまりリングを相手に渡して結婚するという気持ちと、そのリングを失う=形を失う(形ってbondです)そうしたものが全部、『ベニスの商人』の中でハウリングしている。ハウリングっていうと音が悪いけれど、全体としてハーモナイズしているように私は思うんですね。人間が神でないがゆえに犯す大失敗を包み込むような何かです。古今東西、商売は失敗がつきもので、私だって、過去に何回も失敗しています。

サレーリオ、ソラーニオとはbound関係かbond関係かどっちに見えます? ここまで話を聞いてみて。3幕1場のシーンなんか、実態からかけ離れた情報をオモチャにして楽しんでいる。そういう憂慮されるべき存在がこの2人じゃないかなと思うんですよね。そうやって1幕1場を振り返ってみると、バッサーニオのアントーニオからのdebtって一体何なのかと。great debtsを「大借金」と訳すけれど、ひょっとしたらgreat debtsはもっと深い、魂のような響きのある表現かもしれない。なぜなら、この芝居にはsoul(魂)という単語が18回も出てくるんです。How to get clear of all the debts I owe. 私が負っているdebtをクリアしたいんだと。

1幕1場から1幕3場のあいだに何があったのかということですね。当時のベニスの金融界で、シャイロックとテューバルはboundの関係なんでしょう、ユダヤ人仲間として。ところが、テューバルもちょっと怪しいんです、私から見ると。アントーニオの船が難破したと、命拾いした船乗りから聞いたというんです。でも5幕1場の最後に、アントーニオの船が戻ってきたということは、テューバルの情報は明らかに誤報ですね。聞いてもいないものを聞いたかのように表現する。これがシェイクスピアの『ヴェニスの商人』の全体の構造であり、私が現に体験している東京の状況です。そこからさらに推論していくと、テューバルとヴェニスの人と交流があったかのような台詞があるんです。テューバルは、アントーニオの債権者と一緒にいたというんです。bondとか債券とか契約を通じて交流してることが見てとれるわけです。その交流してるのが、アントーニオ一派ではなさそうな感じで、サレーリオ、ソラ―ニオっぽい感じがする。そうすると、ヴェニスの街は、アントーニオのチームと、シャイロックのユダヤチームに分かれるという従来の単純な図式ではないと読まなければいけない。

誠実な愛のある関係と、契約の表面的な関係とのグラデーションの世界、それがワールドになっている。それがベニスの社会にも巣食っていて、アントーニオはその中にいる。boundの関係がまた選び直される。まずランスロットによる主人の選び直し。次に、ジェシカがロレンゾーと駆け落ちする。駆け落ちという表現になっているけれど、これも選び直し。ユダヤ教からキリスト教という単純な図式ではなくて、「0→1、1→2、2→3」の組み換えです。それから、バッサーニオ。バッサーニオはポーシャと結ばれようとしている。結び直しですよね。グラシアーノはネリッサと結ばれようとしてる。シャイロック自身も、裁判によって強引に社会関係を結び直されようとしてる。でもそれは彼にとって幸運かもしれない。なぜなら、最初に1幕3場でアントーニオがboundかと言ったおかげで、「私がその落語一門に入っていいの?」みたいな結び直しのプロセスが、シャイロックにも雪崩のようにやってきている、と私には読めるんです。

では、アントーニオの最初の憂鬱って何なの? 『ヴェニスの商人』をその当時風に、当時意図されたように、意図された内容で、意図された上演がなされたら、そのsick、憂鬱って一体何なんだろうなと。

lendという単語は使いたくないアントーニオが5幕1場の最後に冗談で使う。「今度は魂を抵当にして誓います」と。アントーニオはそれまで抵当なんか取らなかったのに、シャイロック的な契約のことを冗談にして言ってるんですね。観客から見ると、ああ、アントーニオもそんな冗談が言えるローマ人になったんだという感じ。

だから、1幕は「借金」でいいのかということと、「箱選び」とは何かと。また、hazardという単語が出てくるんですね。hazardというのは、サイコロを振るという中世か古代のことばらしいんですけど、サイコロを振るというのがその三つ目の鉛の箱なんです。

未来に向かって挑戦しつづける

最後に、この3つの箱の意味するものは何かを考えます。今までの話をベースに箱選びの箱に書いてあることばを読んでみると、1つ目の箱は「Who chooseth me shall gain what many men desire = 衆人の求めるものを手に入れる」と堅苦しく訳してありますが、原語ではmany men desire、多くの人たちが欲しくなるものを得るでしょうと書いてありますね。こんな箱選んでいいんですか。絶対失敗しますよ。私の経験からすると。2つ目、「Who chooseth me shall get as much as he deserves = あんたにふさわしいものを得るでしょう」と。ふさわしいものというのは仮想通貨で批判されている私のことですか。常に批判されてますよ、私。真面目にやればやるほど、未来に向かって挑戦すればするほど、批判は覚悟の上。本当にみんなが認めてくれるんだったら、こんなに楽な人生ないと思っちゃうから、そんなのあり得ない。3つ目を見ると、Youmust give and hazard all he hath」。やっぱりあり得る解はgiveですよ、まず最初に。「自分の持ってるものをなげうって、それで全部賭ける」。本当に厳しいよね、三つ目。でも、ローマのhonorの下において、これ以外にビジネスで成功する方法があるんだろうかと私には読めます。

そういうふうに全体を理解して、もう一度『ヴェニスの商人』を読み直してみると、シェイクスピアはそういうふうに全体を通して構造化したと思うので、そんな『ヴェニスの商人』を上演できればいいなと思います。ポーシャのお父さんがそういう投資で成功したんだとしたら、なぜそういうふうに箱を仕組んで、その箱を仕組まれたポーシャがそれをなぜ受け入れたのか。それはそこで納得があるわけです。それは親と子のbound。でも、そのboundに信頼性がなかったら、選ばれない。

それで指輪の話があって、最後に船が戻ってきたというのは、それなら難破したというベニスの噂は一体なんだったのかと思いますね。だけども、それは当時のロンドンでも今の東京でもよくあることです。その中でわれわれは未来に向かって時代の中で生き残っていかなきゃいけない。だから、アントーニオの生き方は、投資家としても成功につながる生き方だと私は心底思います。『ヴェニスの商人』にはないけれども、水夫たちが陸(おか)にあがったときに、アントーニオに言うんじゃないかな。「私たちを待っててくれてありがとうございます、アントーニオさん」と。

これが私のシェイクスピア観で、最後に一言で言うと、人が人との共同作業を通じて、信じて、愛して、お互いに背負い込み合う。愛し合うというのは背負い込み合うことですよね。boundの関係になっちゃう。それで、瞬間瞬間、選択に迷うんです。本当にこっちがいいのかどうか。全部を投げ出して不確実な未来に挑戦し続けて、ときどき大成功して、ときどき大失敗して、大失敗すると契約と裁判に巻き込まれて、社会とのギャップが生み出すドラマの連続が起こる。それがワールドから見た投資家の本当の姿で、それは私の今の投資の姿そのものでもあると思えるんです。だから、『ベニスの商人』は古くからずっと上演されて今日まで来ていて、そういうふうに理解できるんじゃないかと思っています。「ベニスの投資家」と題して再上演したらいかがでしょうか。ということで私の話を終わらせていただきます。

おわり

受講生の感想

  • 今年で24歳になるのですが、あの授業をこの年齢のうちに経験できたことは、これからの人生で大きな財産になるだろうと思いました。まず衝撃を受けたのは、村口さんの話を聞いていると「ああ、この人はシェイクスピアを理解しているとか学んでいるとかじゃなくて、シェイクスピアを生きている人なんだ」という風に心の底から感じられたということです。これってとんでもないことではないでしょうか。(中略)授業が進むにつれて自分の気持ちがまるで村口さんの人生劇に入っていくかのように、だんだんワクワクしてくるのがわかりました。

  • 転職・転居を決めました。わりとあっさり決断できたのは、ほぼ日の学校のおかげです。特に村口さんの授業は衝撃でした。未知数のものに対するワクワクには勝てません。少しずつ実現できるよう楽しんでいきたいと思います。