シェイクスピア講座2018 
第7回 松岡和子さん

シェイクスピアの台詞を味わう

松岡和子さんの

プロフィール

この講座について

『マクベス』の中で夫人の死の知らせを聞いたあとのマクベスの有名な独白。Tomorrow Speechを題材に、ひとつひとつの言葉の字義通りの意味、その奥に込められたもうひとつの意味、さらにその言葉が内包する別の意味、そうしたものを考えながら、英語を味わい、さまざまな翻訳を味わいました。坪内逍遥、福田恆存、小田島雄志‥‥英文学を日本に紹介した先達はこれをどう訳したか。そして今を生きる松岡さん、河合祥一郎さんはどう訳したか。比較することで、一冊さらりと読んだだけでは決して知ることのない深い世界に触れる貴重な経験を得ました。

講義ノート

こんばんは。松岡和子です。私はシェイクスピアの翻訳を1993年から始めまして、33本と2幕終えたところです。この学校はいろんな方たちがそれぞれのご専門、ご興味のありかからのアングルでシェイクスピアについて話していらっしゃいます。私も毎回その生徒になって、いろいろ発見があるんですけども、今日は翻訳者という立場からお話ししたいと思います。

はじめにこの学校のプランができたときに、学校長から私に、シェイクスピアの台詞について話すようにというお話がありまして、そのとたん、「無理」って思ったんですね(笑)。なにしろシェイクスピアの台詞は『ハムレット』だけで4000行近くあるわけで、シェイクスピアの台詞全体について話すのは無理難題だと思ったんですけれども、考え直して、わずかな行数でもシェイクスピアの言葉の力の素晴らしさは確実にお伝えできると思ったので、そういう姿勢でやりたいと思います。

前回、山口宏子さんが蜷川幸雄さんのことをお話しになって、その中心が『NINAGAWAマクベス』でしたけれど、実は蜷川さんはそのバージョンのあと2001年に新しい『マクベス』をお作りになったんです。今日は、前回ご覧になった場面と、蜷川さんが新たに挑戦なさった『マクベス』がいかに革命的に違うかを見ていただいて、そして、マクベスが夫人の死を知らされて絶望していう有名なTomorrow Speechを中心にお話ししたいと思います。

まず、Tomorrow Speechに入る前に、シェイクスピアのそもそもの台詞、言葉の特徴というのをざっくりお話ししておきたいと思います。訳しはじめた最初から気がついたわけではなくて、一言一言悪戦苦闘しているあいだに、3本目の『ロミオとジュリエット』あたりかな、「あ、こういう構造になってるんじゃないのかな」と思ったのです。

それは、詩というのは、シェイクスピアに限らず、それから英語に限らず日本の詩でもそうだと思うんですけれども、まず「意味」の層がある。それも、ただ1層ではなくて、2層、3層になっている場合が多い。それから、「イメージ」の層がある。このイメージの層も1つだけじゃなくて、2つ3つ重なったり、言葉が動くにつれて微妙にそのイメージが移ろっていったりする。そして、もうひとつが「音」です。それらが微妙に巧みに融合したり、重なったり、離れたりしながら1フレーズ、1センテンスができている。

ですから、まず翻訳者としてやるのは原文を読むときに、このセンテンス、このフレーズは、意味はどういう層かな、そこにどういうイメージが重なってるのかな、と考えます。そして、音。耳を澄ませて聞かなきゃならないのはどの部分かなということを考えます。頑張ればここまではできるんです。分解できた。分析できた。でも、そのあとが大変。分析できたものをそのまま日本語に移すのは不可能なのです。

なにもシェイクスピアだけではありません。この話をするときに例に挙げるのが、野田秀樹さんの『小指の思い出』という劇。その中で主人公が、「もうそうするしかない」って言うんです。それは「もう、そうするしかない」なら、「もう、それっきゃない」って意味になりますね。だけど、くっつけると「妄想するしかない」になるんです。「もう、そうするしかない」と「妄想するしかない」が重なっている。これを英語に直してごらんって、私、言ってやりたいですよ、イギリス人に(笑)。

こんなふうに、分析はできても、それを別の言語に移す段になると、全部を入れることはまず不可能です。ですから、翻訳者によってこの意味の層の中のどれとどれが入るか、3層全部入れられればすごいけれど、その場合はもしかしたらイメージが犠牲になるかもしれないし、あるいは音の部分は目をつぶろうってことになるかもしれない。翻訳者によって何を重視して、どれを取り上げて、どれを諦めるかというのが全部違うわけですから、たくさんの翻訳が出てきます。

ですから、私が今、到達しているひとつの悟りみたいなものは(笑)、「翻訳は選択と断念で出来ている」。本当に涙を呑んで、これは入らないから諦めようっていうのがあるんですね。でも、できればなるべくたくさん入れたいので、ひとつその例を、『ハムレット』の中の2行から。

King.  How is it that the clouds still hang on you?
Ham.  Not so, my lord, I am too much in the sun.

これは第1幕第2場のクローディアスとハムレットのやりとりです。前の場で、亡霊がエルシノア城の城壁のところに出てきて、歩哨とホレイショーがそれを見たあとのシーン。王様の戴冠と、王がハムレットの母ガートルードと結婚したお披露目が重なった華やかな場面です。ハムレット一人が拗ねて、喪服姿でその華やかさに背を向けている。すると、義理の父になった叔父のクローディアスが、ハムレットに向かって言うわけです。How is it that the clouds still hang on you? 「どうした?str雲が相変わらずおまえに垂れかかっているな」というのが直訳です。そうすると、Not so, my lord, I am too much in the sun.「いえいえ、そんなことありません、陛下。私はsunの中に居過ぎます」とハムレットが答える。ですから、この意味は、「太陽の光の中に居過ぎるくらいです」。それが一番上のレベルです。

sunというのは、シェイクスピアに限らず、この時代のほぼすべての演劇とか文学でいえると思うんですけども、「王」の比喩になります。そうすると、王から出る威光がsunにもなるわけですね。ですから、「王の威光を浴びて、恵まれた立場に居過ぎるくらいです」という意味にもなります。それからもうひとつ、これはsun(お日様)がシェイクスピアの中で出てきたら、そこには必ずといっていいほど、son(息子)という意味がピッタリとくっついてる。逆に、息子という意味のsonが出てきたら、その裏にはsunが貼りついている。耳で聞くと同じだから、常に用心してかからなきゃいけない。義理の父になった叔父は、義理の息子、かつての甥であるハムレットにすり寄るんです。ですから、何回かmy sonと呼びかけるんですが、劇の進行につれてこの呼びかけがどう変わっていくかを追跡するだけでもおもしろいんです。最初はmy sonというのに、最後のほうではガートルードに向かってyour sonと言う。自分とは関係ない、「あなたの息子」がこうだとか。一方、公の場ではour sonと言ったりもします。ですから、隠れているけど、ハムレットが叔父に一番伝えたいのは、「あんたは俺のことをmy sonって呼び過ぎるよ。俺はあんたの息子じゃない」ということ。そういう3層があるわけです。皆さんとっても昔から苦労してらっしゃいます。

坪内逍遥
「はて、心地でもあしうてか、常在(たえず)曇りがちな其面色(そのかほいろ)?」
「いや、曇つてはをりませぬ、いっそ日あたりが好う過ぎます」

これは一番上の層の意味とイメージを採ったものです。

福田恆存
「どうしたというのだ、その額の雲、いつになっても、はれようともせぬが?」
「そのようなことはございますまい。廂(ひさし)を取られて、恵み深い日光の押売りにいささか辟易しておりますくらい」

福田さんは大体ご自分で訳したものを使って演出なさいましたから、演出が入った訳と読んだほうがいいですね。ここで肝心なのは、嫌味を言っていることがはっきりわかること。

それから、俳優座のシェイクスピアで使われてきた三神勲訳は、思いきりよく日本語に引き寄せる潔さを感じます。

三神勲
「どうしたのか、お前の顔にはいつも暗いかげが消えぬようだが?」
「そうでしょうとも、どうせ日蔭者ですからね」

日向にいる状態を逆にしている。でも、嫌味を言っていることは伝わってくる。

それから私の恩師、小津次郎先生。

「なぜその額の雲が晴れぬのかな?」
「とんでもありません。乞食のように、いつも日向に出ております」

日を浴び過ぎているけども、それは決して自分にとって心地のいいことではないというのが伝わってくる。

小田島雄志さんです。
「どうしたというのだ、その額にかかる雲は?」
「どういたしまして、なんの苦もなく大事にされて食傷気味」

苦もなくと、雲なくでダジャレになってるわけですが、一生懸命聞いてないとわからないですね。

ここまではどなたも3層目を訳していらっしゃいません。

次に私の訳です。
「どうした、相変わらず暗い雲にとざされているな?」
「どういたしまして、七光を浴びすぎて有難迷惑」

これは、本当に出てこなかった。それで、もう寝ちゃえと思って、枕元にメモ用紙を置いて横になったんです。ハムレットはクローディアスに「オヤジ顔するな」っていうのだけは絶対言いたいだろうなって思っていたら、半睡半醒状態で「親の七光」というのが頭の中でピカーンと光ったんです。それで「七光」とメモして寝ちゃった。で、翌日できたのが、この「七光を浴びすぎて有難迷惑」。「びて」「りがた」と、頭韻を踏んだつもりなんですけど、まあ、それがsunsonですね。

去年の4月にジョン・ケアードさんの演出で上演された『ハムレット』では、少し変えました。私は、「七光」って言えば、日本人なら自動的に「親の」っていうのを補って解釈してくれるから、十分嫌味は出ると思っていたんですけど、もっとはっきりさせようってことになって、「叔父の七光」としました。叔父のくせに、今は義父になってる。でも、実の父じゃないというのをクローディアスに思い知らせたい、と。そこで内野聖陽ハムレットは、「いいえ、叔父の七光を浴びすぎています、さんさんと」と言いました。「七光」をどうしようかと議論しているうちに、私はその場の勢いで「さんさんと、を足して! 『ハムレット』見に来るくらいのお客さんなら、さんさんとって言ったらsun-sonを連想してくれるだろうから」と言い、それが採用されました。

河合祥一郎さんは、こうです。
「なぜ、いつまでも額に雲がかかったままなのだ」
「いえいえ、王様の太陽に焦がされ、倅扱いでは立ち枯れます」

これも「倅扱い」として、sunsonを読み込んでる。一番深層だけども、おそらくハムレットがピンポイントでクローディアスに一番言いたかったことです。河合さんと握手したい気持ちです(笑)。

これからも、時代に合わせてさまざまな翻訳が出てくると思います。これは翻訳の宿命ですが、原文は絶対に古びない。でも、翻訳は必ず古びてくるんです。ですから、やるからには、なるべく古びないでほしいと思って、どのへんから腐り始めるかを考えています。

私が避けているのは、性差を表す語尾です。先行訳を見ていると、女性の登場人物は「〜でございますわ」といった女性語を使う傾向が強い。ちなみに私は、女性として初めて訳すシェイクスピア劇がたくさんあるので、先行の男性が訳したのだと、ちょっと女として気持ち悪いところがあります。逆に私が男性人物の台詞を訳すとき、男性性を過度に出さないように、なるべくニュートラルに、そのキャラクターがしゃべればその人の言葉になるわけだから、翻訳者が言葉の上で演出してしまうことは避けようと、自戒として思っています。

  • Tomorrow Speech

では、『マクベス』の中で一番有名といってもいいTomorrow Speechをみていきます。これは『ハムレット』の「To be, or not to be」に匹敵するくらいよく知られているんじゃないかと思います。「To-morrow, and to-morrow, and to-morrow」と3回繰り返して始まるので、Tomorrow Speechと呼ばれます。

この講座の第2回に河合祥一郎さんがこれを取り上げて、弱強五歩格=iambic pentameterを説明してくださったので、説明を省いても大丈夫だと思いますので、最初を見てみましょう。 To-morrow, and to-morrow, and ……「+」がついているのが「強」のところです。「-」は弱。

  _   +     _    +    _  +  _
She should have died hereafter:

  _    +     _    +   _ +    _  +   _  +
There would have been a time for such a word.

_   +   _   +   _  +  _   +   _   +  _
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,

  _    +  _   + _   +    _    +   _  +  
Creeps in this petty pace from day to day,

 _  _  +   +  _    +  _ +  _   +
To the last syllable of recorded time;

_   +   _   +  _  +    _    +  _   + 
And all our yesterdays have lighted fools

 _   +   _  +  _  +     _   +   _    +  _
The way to dusty death. Out, out, brief candle!

 +     _  _  +  _    + _   _  +    + _
Life’s but a walking shadow; a poor player,

  _   +    _   +     _  + _ +   _    +
That struts and frets his hour upon the stage,

 _   +   _  +     _  +    _  + _ +
And then is heard no more: it is a tale

 _(+) + _  + _    +   _  +    _    + _
Told by an idiot, full of sound and fury,

 + _ + _    +  _
Signifying nothing.

今日はこれを覚えていただきます。覚えやすく書かれているので、ぜひトライしてください。

_   +   _   +   _  +  _   +   _   +  _
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,

このandが「強」だということは河合さんもおっしゃいましたけれども、9行半の中にandがこんなに出てくるんです。

_   +  _  +  _  +
And all our yesterdays

 _     +  _     +   _  +   _ +   _   +       _   +  _   +    _   +
That struts and frets his hour upon the stage, / And then is heard no more:

 +    _   + _
sound and fury,

上についているマークを見てください。全部「-」。「強」になってるのは、to-morrowのところの2つだけなんです。英語の中でandはつなぎの言葉だから強調しないのが普通。ですから、いかにこのはじめの2つのandが特別かというのがおわかりになると思います。to-morrowにハイフンが入っていることも、河合さんが説明なさいましたね。シェイクスピアの全集を見ると、to-morrowという言葉がたくさん出てきます。印刷されているときは全部この形です。だからとくに意味はない、というふうにもいえるんですけども、この1行に限り、意味があるんです。

シェイクスピアの台詞の特徴として申し上げたように、意味が2層になる。morrowというのは、この当時の英語ではmorningという意味なんです。ですから、「Good morning」という台詞はあまり出てこなくて、「Good morrow」。ですから、このto-morrowは、一語だと「あした」という意味だけれども、分解してみると、to morningになる。「あした」という意味に「朝へ」という意味が重なる。

creepは「這う」。「這うようにのろのろと歩く」という意味です。petty pace、つまり「小さなペース」で。from day to day。「この日から次の1日へ」。どこまでいくかというと、To the last syllable of recorded time。「記録された時の最後のシラブルに向かって」。「あした、またあした、またあしたが、小きざみな足取りで、この日から次の日へと、そして、記録された時の最後の1音に向かって這っていく」というイメージです。

大事なのは、to morningだから今は夜だということです。そして、ここを読むたびにめまいがしそうになるんですけども、to-morrowが主語です。だから、あしたが1個来て、這うように来て、また次のあしたが1個来て、這うように。そういうふうに、3つ並んでますけども、1つ1つ単独で主語になっていて、creepsというふうに、この動詞には単数の主語を表す「s」が付いているわけです。

ですから、夜の中に誰かがいて、向こうからあしたが1日ずつ、ゆっくりとやって来る、というイメージがあります。でも、モノがやって来るっていうのは、相対的に、ここに止まってるはずの、止まってたと思った人が動いていくということにもなりますよね。ですから、あしたが主語で、向こうからトボトボやってくるのと、誰か、何かがゆっくりした足取りで、朝へ、朝へと動いてる感じの、来るのと行くのとが同時だから、なんかめまいがするんですね。

その朝に向かってっていうときのイメージの中で、このandがすごく重要になってくる。「やっと1日過ぎたのに、また行かなきゃなんない(=また明日が来ちゃう)」っていうandなんです。普通ならば、[+Tomorrow] [-and] [+tomorrow] [-and]、となるんだけども、[-To]-[+mo][-rrow]、弱く言って、「朝に向かってまた。はぁ。朝に向かってまた」っていう、そういう、朝が来るのと、人間が朝に向かって夜の中を這うようにいくのが重なるんです。「よっこらしょ」という感じがこの2つのandにこもっています。

それから、赤で書いた単語を見てみましょう。petty pacep-pですね。「小さな足取り」。それから、day to day「その日からその日へ」。daydayd-d。dusty deathdustというのは「埃」とか「塵」とか。deathは「死」ということですね。ですから、dusty deathっていうと、「塵にまみれた死」。で、人間は塵から生まれ塵に帰る、土から生まれ土に帰るといわれるdustなんです。ですから、dusty deathというのは、その「泥まみれの死」っていうのと「人間が土に、塵に帰る死」という意味が重なっているわけです。ここも、d-d。それから、poor playerp-pですね。「哀れな役者」。そして、tale Toldt-t。こういうのを頭韻といいます。脚韻はお尻で韻を踏むけれども、頭韻というのは頭で韻を踏む。シェイクスピア作品の中で、たった10行の中にこんなに頭韻があるのは珍しいです。技術的にいうと、脚韻を踏むほうがずっと難しい。

ここまで意味をみました。では、耳で聞くとどうなるか。To-morrowは「朝へ」と聞こえると同時にtomorrow「明日」と聞こえる。次に from day to day。文字で読むと、「或るdayから次のdayへ」だけども、耳で聞くとどうですか。from day to day。後半はtoday「今日」に聞こえるでしょ? そうすると、tomorrowがあってtodayが来たら、次は何でしょう? そう、yesterday「昨日」。ちゃんとあるんですよyesterdayが。2行あとに。ですから、連想でtomorrowtodayyesterday。はい、この連想にのっていけば覚えられるよねって、シェイクスピアが言ってくれてるわけです。言ってみましょう。(全員朗読)

そのすべての昨日が愚か者のために照らしてくれた道がある。今は夜。で、今日。そうすると、朝が来て、人は先へ、前の方へ行くんだけれども、それは朝が向こうから来るということでもある。昨日の連なりが(all our yesterdays)順々に1日1日ゆっくり来るんだけど、振り向くと、昨日がひと塊になってるというイメージです。そのひと塊の昨日が光源になっている。向こうへ行く夜の中、振り向いたら昨日ばっかり。でも、それが光になって照らしている。何を照らしてるかというと、The way to dusty death。あしたのうんと先には、死ぬその日があるわけです。そこまでの道を後ろから照らしてる。後ろから照らしているから、もう消えてくれ。Out, out, brief candle! ここまで一緒に読んでみましょう。

この、brief candleというのも非常にミステリアスな表現なんです。briefってブリーフケースとかブリーフィングとか、そういうふうに今、日本語でも使われますね。「短い」という意味です。でも、これはshortとは違って、時間的に短いという意味。ですから、briefと言うときって、brief talktalking brieflyっていうふうに、時間を表す短さのときに使われる言葉なんですけども、ここではロウソクというモノに使っている。とても珍しい。そこを坪内逍遥先生は、決定訳をお作りになりました。「消えろ、消えろ、束の間の燈火(ともしび)!」。ちゃんと時間の短さを表す「束の間の」というのと「燈火」。これは私も含めて、多くの訳者がありがたく頂戴して使わせていただいています。

ここで大事なのは、「消えろ、消えろ、束の間の燈火!」って後ろの光源に向かって言ってから前方に振り返ると、そこには何がある? そう、影ですね。影が落ちている。その連想から、ちゃんと影が用意されている。Life’s but a walking shadow。そうすると、最初は向こうから、あしたがやってくるって感じだけども、ここだと人間の人生そのものが歩く影だと言っている。人生というものを人間になぞらえて、それが死に向かって歩いていく。後ろから昨日の集積であるロウソクが照らして、影が落ちている。

ここでひとつ新しい知識として入れていただきたいのは、シェイクスピアの世界では、shadow「影」といったらほぼ同時に「役者」を意味することです。つまり、「私」という実体がなくて、演じる役だけがそこにある。役が終われば消えてしまう。だから、役者も役と同じように実体のない影だという考え方がさまざまなところで出てきます。

Out, out, brief candle! に戻ると、ここに私が立っている。パッと見ると影。影は役者。だから、Life’s but a walking shadow; a poor player、このpoorというのはいろんな意味があって、「下手な役者」という解釈もありうるんですね。でも、そうすると、うまい役者なら大丈夫なの? みたいな話になりますよね(笑)。ですから、このpoorというのは、うまい下手ではなくて「役者という哀れな存在」というふうに考えたほうがいい。すると、「人生はたかが歩く影、哀れな役者」。覚えやすいですね、p-pだから。で、それが何をするのかというのが次です。That struts and frets his hour upon the stagestruts and fretsは、ちょっとお初にお目にかかる言葉かもしれません。strutsは、「のしのし歩く」。fretsは、「イライラする」。まとめて考えると、「舞台の上で自分の影の時間のあいだだけ、ドタドタ歩いたりイライラしたりと大げさな演技をする」みたいなイメージを持ってくださったらいいです。

人生というのは哀れな役者で、影(役者)に過ぎなくて、その役者も舞台に出てるあいだだけ大騒ぎしているけれども、And then「そしてそのあとは」、is heard no more「もうそれ以上聞かれることはない」。そこのところを私は、「袖に入ればそれきりだ」というふうに、かなり舞台の言葉に引き寄せて訳しました。「袖に入ればそれきり」と、「そそ」で音が重なるかなと思って。

その次。it is a tale/ Told、ここのとこもt-t。「物語」が何によって語られるか。by an idiot。ドストエフスキーの『白痴』の英語タイトルはThe Idiotです。「白痴によって語られる物語だ」と。full of とは「of以下の物でいっぱい」ということですから、sound and fury「音と怒り」でいっぱいで、Signifying nothing「何も意味しない」。

マクベスは、奥さんが死んだという知らせを聞いて、絶望しちゃうんですねえ。生きていたってしょうがない。あしたが来るけど、自分はまだ死んでないから生き続けなきゃならない、というような心境です。

では、休憩の間、みなさんに覚えていただいて(笑)、お休みのあとでもう一回やりましょう。ところで、このtomorrow、私の文庫本では「明日」と書いて「あした」とルビを振ってあります。最初、松本幸四郎さん(当時)のために訳したときは、「あすも、あすも、またあすも」と読んでくださいと言っていました。そのほうがリズムがいいから。でも、これはリズムがよくてはいけないんです。「andand、よっこらしょ、よっこらしょ」っていうふうに歩いていかなきゃいけないから、「あすも、あすも、またあすも」じゃダメなんです。それに気づかせてくれたのが、あとで映像をお目にかける、現在ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの芸術監督であるグレゴリー・ドランが演出して、アントニー・シャーという名優がマクベスをやった舞台。それを見て、「ああ、そうか!」と分かったんです。それ以来、「あした」とルビを振るようになりました。嬉しいことに、日本語でも「あした」というのは、「朝」という意味を持ってますよね。ブラウニングの詩の訳に「朝は七時」って書いて「あしたは七時」って読ませるフレーズがありますけども、ですから、「あしたも、またあしたも、またあしたも」に読みを変えました。

(休憩)

再開します。今日はぜひtomorrow speechを覚えて、あちこちでひけらかしてください(笑)。本当に覚えられるようにできている、完璧な台詞だと思います。

こんなふうにお話しすればするほど、私は自分の首を絞めてるなと(笑)思うのですが、これだけ完璧でイメージも意味も音もきれいな台詞をどうやったら日本語にその等価なものとして作り出せるか、訳せるかっていうのは本当にずっと続く大きな課題だと思います。

ではもう一回言ってから、次の話に行きたいと思います。できるだけ見ないで言ってみましょう。(全員暗唱)ぜひ寝る前に毎日、唱えてください(笑)。

では、さまざまな翻訳を読んでみましょう。まず逍遥訳から。

受講生朗読:
やがて死なねばならなかつたのだ。
いつかは一度然(さ)ういふ知らせを聞くべきであつた。……明日が来り、明日が去り、又来り、又去つて、時は忍び足に、小刻みに、記録に残る最後の一分まで経つてしまふ。凡て昨日といふ日は、阿呆共が死んで土になりに行く道を照したのだ。消えろ消えろ、束の間の燈火(ともしび)! 人生は歩いてゐる影たるに過ぎん、只一時舞台の上で、ぎつくりばつたりをやって、やがて最早(もう)噂もされなくなる惨めな俳優だ、白痴(ばか)が話す話だ、騒ぎも意気込も甚(えら)いが、たはいもないものだ。」

野上豊一郎訳。

受講生朗読:
やがてはいつか死ぬべきではあった。
そういった知らせを聞く時もある筈(はず)ではあった。――
明日(あした)、明日(あした)、明日(あした)の日が、
毎日忍び足に這い寄って、時の記録の最後の綴(つづ)りまでつづく。
そうしてすべての昨日(きのう)という日は、馬鹿者どもの
塵の死へ行く道を照らした。消えろ、消えろ、短かい蠟燭(あかり)。
人生は歩く影だ。あわれな役者だ。
舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、
じれじれしたりするけれども、やがては人に忘られてしまう。
愚人の話のように、声と怒りに充ちてはいるが、
何等の意味もないものだ。

大山俊一先生。

受講生朗読:
今亡くなるべきではなかった。
やがてはこんな知らせにも、もっとふさわしい時が来ただろうに。――
あした――そしてまたあした――そしてまたあしたと――
一日一日がこのささやかな足取りで這い寄って行く、
記録された「時」の最終、最後の綴(つづ)り字まで。
そしてわれわれのきのうというすべての過ぎし日々は、愚か者の
墓土への道の明りにすぎない。消えろ、消えろ、つかのまの明り!
人生は単なる歩く影、あわれな一役者にすぎない。
その持ち時間を舞台の上で、腹を立てたり気取ったり、
そしてその後は、人に聞かれることもさらにない。これぞまさに
狂人のたわごと、音と激情でいっぱいなのだが、
意味するものは何も無い。

次は福田恆存先生。

受講生朗読:
あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞く時が。あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階(きざはし)を滑り堕ちて行く、この世の終りに辿(たど)り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵(ちり)にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈(とも)し火(び)! 人の生涯(しょうがい)は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場(でば)のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚(わめ)いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。

ありがとうございます。完全に福田さんはイメージを変えてますね。「時の階」という、そういう階段を落ちていくというイメージに平行移動させています。木下順二さんのをお願いします。

受講生朗読:
いずれは死ぬのだ、ただもう少し後(あと)にしておいてやりたかった、こういう知らせにふさわしい時もいずれは来ただろうに。――
明日(あす)が、そして明日が、またその明日が、
小刻みの忍び足で一日一日と流れて行き、
やがては時という文字の最後の響きの中に消える。
きのうという日はいつも、塵泥(ちりひじ)の死への道をたどる
愚かな人間の足もとを照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、束の間のともし火よ!
人の一生はただゆらめく影だ、つたない役者だ、
短い持ち時間を舞台の上で派手に動いて声張り上げて、
そしてあとは誰ひとり知る者もない。それは白痴が語る
ただ一場(いちじょう)の物語りだ、あふれかえるのは雄叫(おたけ)びと狂乱、
だが何の意味もありはせぬ。

次、小田島さん。

受講生朗読:
あれもいつかは死なねばならなかった、
このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた。
明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
つかの間の燈火(ともしび)! 人生は歩きまわる影法師、
あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる
物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。

では、河合祥一郎さん。

受講生朗読:
何も今死ななくてもよかったものを。
そう聞かされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ。
明日(あした)、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。
そして昨日という日々は、阿呆(あほう)どもが死に至る塵(ちり)の道を
照らし出したにすぎぬ。消えろ、消えろ、束の間の灯火(ともしび)!
人生は歩く影法師。哀れな役者だ、
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ばったり沙汰(さた)止み、音もない。
白痴の語る物語。何やら喚(わめ)きたててはいるが、
何の意味もありはしない。

いろんな訳を読むと、微妙な違いも面白いですし、それぞれの翻訳者が何に重点を置いて訳していくかという「選択と断念」がおわかりになると思います。

それではもう一回、私の訳で唐沢寿明さんのTomorrow Speechを観てください。さきほど、シェイクスピアのすべての要素を日本語に全部持ち込むのは不可能だし大変と申し上げましたけども、そのときに、等価の、日本語独特のものを加えることがある。私は「とぼとぼとその日その日の歩みを進め」ってやりましたけども、日本語の美点というか、日本語で私がこれは生かしたいといつも思うのは、「とぼとぼと」のような擬態語、擬声語、擬音ですね。ここっていうときに使うと、フッと私たちの側に来る。でも、やり過ぎると嫌味ですから、禁欲的に考えていますし、自己満足に終わらないように考えてやっていかなきゃいけないと思います。

松岡和子訳
明日(あした)も、また明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火(ともしび)!
人生はたかが歩く影、哀れな役者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、
筋の通った意味などない。

アントニー・シャーのTomorrow Speech

それでは、andの大事さ、andを強調するとどういうイメージ、どういう心理状態が表現できるかを教えてくれた、グレゴリー・ドラン演出、アントニー・シャーのTomorrow Speechを聞いてください。

素晴らしいでしょ? 私はこれをシェイクスピアの生地ストラトフォード・アポン・エイヴォンで観て、グレゴリー・ドランさんにもインタビューしました。そのときの話で興味深いと思ったのは、ドランさんもシャーさんも、人を殺した人に会ったんだそうです。「あの老人にこんなにたくさん血があるとは思わなかった」というマクベス夫人の台詞がありますけども、それと同じことを感じたとか、殺した瞬間に後悔したと聞いたと話してくれて、私まで胸が詰まって涙が出ました。マクベスの本当の悲劇というのは、殺したからというよりも、取り返しのつかないことをしてしまって後戻りはできない、そういう男と女の悲劇だと思うのですが、そこまでリサーチするって、すごい人たちだと思いました。

nothingのところ、河合さんがエコーをかけて語ったのとずいぶん違いますけれど、どっちがいいとか何とかではなく、あれは河合祥一郎のnothingの解釈だし、これはドランとシャーの解釈。Signifying nothingだけでもこんなに幅があるということだと思います。それがよくわかる、おもしろい映像をお目にかけます。

2016年はシェイクスピア没後400年ということで、世界中さまざまなところで記念のイベントがありました。ストラトフォードのロイヤル・シェイクスピア劇場でも、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを中心にして、「シェイクスピア・ライブ」というパフォーマンスがあって、それの締めがこれでした。(さまざまや役者がでてきて、to be or not to be  that is the question の違った言い方を競い合う)

ここまでで、今日の本来のお話は終わりですが、この際だからお話ししておきたいことがあります。河合さんが2回目の講義でシェイクスピア別人説を否定されました。私は戯曲を翻訳する立場から、役者シェイクスピアが劇作家シェイクスピアに違いないと考える状況証拠(笑)をお見せして、河合さんのお話の補強になったらいいなと思います。

シェイクスピア劇で主役が休める場面

『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』、四大悲劇全部に主役が休める場面があるんです。『ハムレット』の場合は4幕4場でイングランドに行かされます。実は叔父さんのクローディアスが一計を案じてイングランド王に殺させようとするんだけれども、船旅のあいだに海賊が襲ってきたおかげで、ハムレットは一命をとりとめ、それどころか親書を書き換えて、ローゼンクランツとギルデンスターンが代わりに死んじゃうように仕向けた。その間、ハムレットは舞台に出ていないわけです。オフィーリア狂乱、レアティーズ帰国、王との企みということが、ハムレットが出ていない間に舞台の上で繰り広げられる。テキストによって違いがありますが、だいたい494行のあいだ休めるわけです。『マクベス』も4幕1場の大釜の場のあと、5幕3場の医者との会話まで舞台からいなくなる。その間にマクダフの妻子が殺され、イングランドの場面があり、マクベス夫人の夢遊病の場があり、マルカム軍がダンシネインに向かってくるという場面がある。これも相当長い。マクベス役は楽屋で休めます。『オセロー』も4幕3場、ヴェニスのロドヴィーコーを送りがてら退場してから、ラストシーンの5幕2場まで出てきません。それから、『リア王』は3幕7場から4幕6場のドーヴァーの場、野の花をつけた狂乱の場までひと休みです。

これに思い至ったのは、ロナルド・ハーウッド作の『ドレッサー』という戯曲を訳したとき。第二次大戦中にシェイクスピア劇を持ってイングランド各地を回った劇団の座長とその付き人が主人公のお芝居なんです。嵐の場が終わったあとで、ノーマンという付き人が座長に向かって、「次の出まではたっぷり休めますよ」って言うんですね。「あ、そうか、休めるんだ」と気づいたんです。役者への作者の心遣いです。しかも、次に出てくるときには、ハムレットはチャンチャンバラバラやらなきゃならないし、オセローは奥さんの首絞めなきゃならないし(笑)、マクベスはマクダフと戦わないといけないし、リア王に至ってはコーディリアを抱いて出てくるという大仕事が待ってるわけです。

これらの役は全部リチャード・バーベッジというシェイクスピアの盟友がやったと思われます。このとき、バーベッジは黙って立っていても二枚目という時代は終わっていたと思うんです。バーベッジにとってハムレットが二枚目とそうじゃなくなるときの境目だったんじゃないか。レアティーズとの剣の試合で2回目が終わったとき、母ガートルードが「あの子は太ってる(He is fat)」と言いますが、これバーベッジの中年太りが始まったことをちょっとからかう楽屋落ちなのでは? と今の私は思っています。だってハムレットのあとは全部、二枚目じゃなくて、それどころかリアはおじいさんですよ、80歳過ぎの。それでもひとつの悲劇の芯に立って劇世界全体を担える俳優は、バーベッジしかいなかったのでしょう。「疲れるよ、ウィル」とか言われて、「じゃ、休める場面作ろう」――このへんはもう私の妄想です(笑)。でも、そうやってしっかり休んで、舞台に戻って次の大きな山を演じる。そういう心遣いを主役の俳優に対してできる劇作家は、書斎で戯曲を書く貴族の劇作家ではないだろうというのが、論文にならない(笑)私の説です。

もうひとつ、お話ししておきたいのは、これも前にこの講座で話が出たと思うんですけど、『シェイクスピアはわれらの同時代人』という名著のことです。私は初版を買って全部読んで、それ以降は必要なところだけ拾い読みしていたんですけど、ちょっと前に序文から全部再読する機会がありました。2016年のシェイクスピア没後400年にあわせて、毎日新聞の書評欄で、池澤夏樹さんと、演劇評論家の渡辺保さんと私の3人がそれぞれシェイクスピアに関してお薦めの本を挙げることになった。その一冊の『シェイクスピアはわれらの同時代人』を、せっかくだから序文から再読しようという、いい心がけのおかげで、すごい発見をしたんです。日本版への序文、第1ページで私はガーンとなったんですね。最初に読んだときには、この言葉の意味があまりわかっていなかった。というよりスルーしてたのか。でも何十年か経って読み直すと、私のシェイクスピアとの関わり方も変わってきていますから、こちらの側の事情も関係してるかもしれません。読みますね。

「わたしはシェイクスピアを読み始めるより先に、劇場で何度もシェイクスピアを見た。その後長年の間、わたしはシェイクスピアをポーランド語で読み、ポーランドの劇場で見るだけだった。英語でのシェイクスピア、イギリスの劇場でのシェイクスピアは、わたしが知ったいろんなシェイクスピアのうち最後のものであった。
 思うに、英語が母国語でないすべての人たちの経験はこれによく似たものであろう。」

(中略)

「劇場におけるシェイクスピアの人物は、たとえ歴史的な衣装をまとっていようとも、現代人の顔貌をしている。そして、よし俳優たちのしぐさまでが様式化されていようとも、情熱と心の動きは彼らの情熱であり、彼らの心の動きである。つまりわれわれの時代のものである。英語ならぬシェイクスピアは必ずまず演劇であって、然るのちにやっとテキストとなる。俳優とは語るものであって、ポーランド語で語り、イタリア語で語り、また日本語で語る。英語ならぬシェイクスピアは国民劇となる。つまり、彼が演じられるその民衆の演劇となるのだ。」

これが、こういう仕事をしている自分にとって力になったんです。やはりどこかでイングランド、英語ネイティブの人たちの読み方に比べて浅いんじゃないかとか、ちゃんとしたところが読めないんじゃないか、あるいは、ましてそれを日本語にするなんて大それたことがどこまでできているのかしらっていう不安があったんですけれど、これを読んで、「あ、そうだよな。私だって、最初のシェイクスピアは英語じゃなかった。平均的な日本人のシェイクスピアとの接し方だった」と思うと、なんとなく今やってる仕事への励ましの言葉といったらいいでしょうか、そういう気持ちになったんです。

2016年に、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで開かれた国際シェイクスピア学会のパネルディスカッションのパネリストとして呼ばれました。「シェイクスピアと翻訳」というタイトルでした。最初のプランでは、各文化圏、各国のさまざまな翻訳者が一堂に会して、シェイクスピアの翻訳について論じましょうという話だったんです。でも1人抜け、2人抜けして、結局チェアパースン入れて4人になっちゃった。個々に事情があって抜けたのでしょうが、テーマや論点をメールでやりとりしてるうちに「あ、これ絶対かみ合わない」っていうのが、だんだんわかってきた(笑)。蓋を開けたらそのとおりでした。たとえば、ポルトガル語に翻訳した大学の先生がいらっしゃるんですけど、1本も舞台にかかったことがない。あるいは、古典のラテン語のものを英語に翻訳することを研究してる人。ますますダメだわと思って。でも、しょうがないから、私はこういう仕事をしています、と自分のことを話すしかないと思って開き直りました。

それで、最初に、「私は文学的な職人です」と宣言しました。「学者じゃありません。職人です。職人にとって一番大事なのは仕事場、ワークショップ。私のワークショップは、書斎と稽古場です」という話をしました。そして、日本語でシェイクスピアをやるということの私なりの意味を考えざるを得ないわけですよ。おかげでいろいろ考えて、要するに英語じゃない言語を持つ私たちがやっているシェイクスピアというのは、文化的なハイブリッドを作ることだと思うと話しました。私たちがやってるのは、日本語を話すデンマークの王子様だったり、日本語を話すヴェニスの金貸しだったり。でも考えてみると、そういうことの大先輩がシェイクスピアその人だ。シェイクスピアは、英語を話すデンマークの王子や、英語を話すヴェニスの金貸しを書いてるわけです。むしろ、英語を話す英国の人々を書く方が数えるほどしかありません。『ウィンザーの陽気な女房たち』ぐらいで、あとはウィーンだったり、ヴェローナだったり。だから、「日本語でシェイクスピアを作ってる私は、シェイクスピアの正統な後継ぎです」ということを言いました(笑)。もう自棄のやんぱち。でも、本当にそうだなって思います。

これからも私たちは、私たちのシェイクスピアを作っていく。前回の講義で山口宏子さんが言ってらっしゃいましたし、私も蜷川さんの口からじかに聞きましたけれども、蜷川さんはオリエンタリズムをアピールするために作っているわけではないし、輸出用に作ってるわけでもない。あくまで、私たちの記憶と直結するイメージや道具立てを用意して作ることが私たちのシェイクスピアなんだと。それがたまたま外国に持っていったら、今まで見たことのないシェイクスピアだと高い評価を得た。

ですから、これからも大威張りで日本語のシェイクスピアを作っていこう、その一助になりたいと思います。カクシンハンはじめ、作り手はみんな自信を持ってやればいい。そして、私たちも観客になったときは、「イギリスのほうがいい」なんて思わずに、私たちは私たちのシェイクスピアを大いに楽しめばいいと思っています。

受講生の感想

  • 翻訳されるにあたり、いかに言葉を吟味されているかというお話。
    ほとんど日本語による再構築ともいえる作業との印象を強く持ち、感銘を受けました。

  • 松岡さんの言葉選びへのこだわりには感動しました。シェイクスピアさんもうれしいだろうなあと、感じながら拝聴しました。

  • 寝る時、必ずTomorrow Speechを暗唱するようにします!

  • こんなに様々な意味がこめられているなんて! 目から何枚もウロコが落ちました。