シェイクスピア講座2018 
第1回 木村龍之介さん

シェイクスピアの全作品と出会う

木村龍之介さんの

プロフィール

この講座について

ほぼ日の学校シェイクスピア講座2018は、シアターカンパニー・カクシンハンを率いる若き演出家・木村龍之介さんの授業でスタートしました。「まずは、ひとりひとりのシェイクスピアに出会ってください」と、広く、大きな入り口をあけて、みなさんをシェイクスピアの世界に誘い込んでくれました。最初は「ハリーポッターか?」と思ったという自身のシェイクスピアとの出会いや現代劇としてシェイクスピアを上演する楽しさと挑戦の喜びなど、木村さんならではのやさしさたっぷりの講義をお楽しみください。

講義ノート

ひとりひとりのシェイクスピア

シェイクスピアは、豊かで、難しくも簡単でもあり、為にもなり危険にもなります。それをみんなで味わっていきましょう。

まずは、これまで読んできた、観てきた作品の数を指で示してください。ゼロの方は「グー」で。ゼロでいい。何も知らないからこその、「ゼロの快楽」というのがありますから。

次に、みなさんの思っているシェイクスピアを「ポーズ」で表してみてください。登場人物でも何でもいい。思うとおりでかまいません。苦悩している人がいますね。いいですね。どんなポーズをとっていいか困っている人はシェイクスピアをよく知っている人か、ゼロか。どちらもいいですね。

たかだか10年かそこらですが、ぼくはほぼ毎日ずっとシェイクスピアをやってきました。それで思うことは、シェイクスピアはぼくにとって、自分が今いる地球の他に、世界がもうひとつできたようなものだということ。巨大な地球が手に入ったような感覚です。そんな「もうひとつの地球」で日々演劇をしながら生きています。そこにはどんな虫がいるのか、草が生えているのか‥‥もうひとつの地球の出来事を体感しているような感じです。

シェイクスピアってこうなんだ! と発見してもすぐに裏切られる。やっぱりこうか、と思ったら違う。そんな風に、四方八方からの発見がある作家です。だから、「シェイクスピアはこういう作家」というイメージは、ぼくにはあまりない。この講座で「ひとりひとりのシェイクスピア」ができるといいなと思っています。あなたのシェイクスピアを見つけてください。

最初に、相手をちょっと知るために基本的な話をします。

シェイクスピアさんはじめまして。あなたは誰でしょう。まず、何世紀の人か? シェイクスピアが生まれたのは1564年。そして亡くなったのが1616年。「ひとごろし、いろいろ」と覚えてください。シェイクスピアには妻がいました。その名は、アン・ハサウェイ。8歳上(はっさいうえー)だったそうです(笑)。

全部で37作品とも40作品ともいわれる作品を大きく分類すると、史劇、悲劇、喜劇、それにロマンス劇があります。どれもいいけれど、ロマンス劇が特にいいんです。ロマンス劇は奇蹟がたくさん起きる劇で、とりわけ『冬物語』がぼくの一押しです。

愛と死の冷凍パック

ところで、ぼくは普段からシェイクスピアの言葉を使うことを推奨しています。大学のとき高橋和久先生は、ぼくらが宿題を忘れたりすると「尼寺へ行っちゃえ、尼寺へ」とか言っていました。そういうの、いいなと思います。他にも、たとえば「手が白いね」と言いたいときに「ああ、あのトーラスの高嶺の、東風に吹き清められて純白に凍てつく雪も、きみに手をさしのべられて比較されたら、カラスも同然だ」(『夏の夜の夢』小田島雄志訳)と言ってみるとか。

『ハムレット』、『リア王』、『オセロー』など悲劇の印象が強い作家かもしれませんが、シェイクスピアには喜劇もあります。悲劇と喜劇のちがいは何でしょう? ざっくり分類すると、悲劇は死で終わる。喜劇は結婚で終わる。つまりシェイクスピアは「愛と死 Love & Death」にこだわった作家ではないかと思っています。

シェイクスピアは詩人です。ここでひとつの詩を紹介します。戯曲も詩で書かれている部分がとても多い。ここに、ぼくはやられました(笑)。しゃべっている言葉が美しい。そして人間の真理を急に突いたりする。ソネット18番を読みます。好きな人の顔を思い浮かべながら聞いてください。

あなたをなにかにたとえるとしたら夏の一日でしょうか?
だがあなたはもっと美しく、もっとおだやかです。
手荒な風が五月の蕾を揺さぶったりして
夏のいのちはあまりにも短くはかないのです。
ときには太陽の眼差しが熱すぎることもある、
ときにはその黄金の顔に雲がかかることもある、
そして偶然、あるいは自然のなりゆきによって、
美しいものはすべてその美しさを奪われていくのです。
だがあなたの永遠の夏は色あせることもなく、
あなたに宿る美しさは失われることもなく、
死神に「死の影を歩む」と言われることもないでしょう。
あなたが永遠の詩の中で「時」と合体しさえすれば。
人々が息をするかぎり、その目が見うるかぎり、
この詩は生きてあなたにいのちを与え続けるでしょう。

小田島雄志訳『シェイクスピアのソネット』より

詩の中で「あなた」の美しさをとじこめて後世に伝えていこうという詩です。詩の力で美を永遠のものにした。ロマンチストですね。

シェイクスピアは、愛と死を戯曲の形で永遠不滅の冷凍パックのような形で後世に残そうとした。ぼくはそんな風に考えています。冷凍パックですから、温めて食べるまで時間がかかるかもしれません。溶かすのはみなさんです。

バーナムの森と9・11

ここで少し、ぼくとシェイクスピアとの出会いをお話しします。高校3年生のとき、アメリカで同時多発テロが起きたり、近くの小学校で大きな殺傷事件が起きたりして、これは世の中の仕組みをきちんと学んでおかないとわけがわからないことになると思って、にわかに勉強を始めました。浪人中にカール・ポパーやドストエフスキーを読み始め、大学の文学部系の学科(文科三類)に入り、英文科に進んだものの最初はなじめなかった。そんなある日、図書館でたまたま手にとったのが『マクベス』。シェイクスピアってすごいと聞いていたのに、いきなり魔女登場。ハリー・ポッターか? 読み進めると、「いいは悪いで悪いはいい‥‥」。なんだこれ? さらに読むと「バーナムの森がダンシネインの城に向かってくるまでマクベスは滅びはしない」‥‥またハリー・ポッターか???? でもおもしろくなって引き込まれ、演劇も見てみようとVHSで借りてきたのが「蜷川マクベス」でした。舞台は仏壇だし、桜が舞うし、歌舞伎か? なんだこれは!? と衝撃の一日でした。そのとき何かが腑に落ちた。バーナムの森と9・11がつながった気がしたのです。以来、ぼくはシェイクスピアにのめり込んでいったのです。

他の作品も紹介しましょう。『タイタス・アンドロニカス』。残酷だけど、とても美しい作品です。ラヴィニアという女性が凌辱されるという場面があります。それどころか、ラヴィニアは暴行された被害を他のだれかに伝えることができないように手も切られ、舌も切られてしまうる。そんなラヴィニアの姿を目撃したマーカス・アンドロニカスが、そのラヴィニアの酷い有様惨状を滔々と蕩々と4ページもしゃべるシーンがある。でも、その描写がなんとも美しい。残酷なはずなのに、とても美しい言葉で語る。シェイクスピアの目はいったい何を見ているのでしょうか。

シェイクスピアは上辺を突き抜けたところを見ている気がします。わたしたちが生きている世界の道徳や世間の常識や価値観から少し離れたところで、自由にものを考えている気がする。違った視点を提示してくれる。しかも美しい言葉で。

ここで、『ハムレット』の有名なセリフ(第4独白)を見てみましょう。有名なto be or not to be。存在するのとしないのと、要するに全部ですね。シェイクスピアは全部欲しい。beとnot to beの間にいる、そんなときに「人間」がわっと溢れてくるんじゃないか。そのときにあらわれる人間像をシェイクスピアは見たかったのではないか。ぼくはそう思うんです。

ハムレット

生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ。
どちらが雄々しい態度だろう、
やみくもな運命の矢弾を心の内でひたすら堪え忍ぶか、
艱難の海に刃を向け
それにとどめを刺すか。死ぬ、眠る――
それだけのことだ。眠れば
心の痛みにも、肉体が受け継ぐ
無数の苦しみにもけりがつく。それこそ願ってもない
結末だ。死ぬ、眠る。
眠ればきっと夢を見る――そう、厄介なのはそこだ。
(後略)

松岡和子訳『ハムレット』第三幕第一場より

『ハムレット』はマラソンに似ている。42.195キロを完走するかしないかで人生が変わるように。村上春樹さんが「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」と言ったのにも似ているかもしれません。『ハムレット』を観たことがあるかないかで、その人の人生の何かがちょっと変わってくると思っているのです。では、ちょっと聞いてみましょう。シェイクスピアの劇は聞くことによってイメージするように書かれている戯曲です(カクシンハン俳優の真以美さん朗読)。シェイクスピアの時代、女性の役も男性が演じていました。『ロミオとジュリエット』のジュリエットも、少年が演じていたといわれます。その意味ではジェンダーレスです。シェイクスピアは、性別よりも「キャラクターの魂を持っている」ことが大事だと思っていたのではないかと勝手に思っています。

マックス手足の時代

ぼくがシェイクスピアについて考えていることをひとつシェアさせてください。シェイクスピアは何を描いているのか。愛と死もそうですが、ロミオとジュリエットは恋に落ちて突っ走る。『オセロー』では嫉妬のあまり殺したり、社会にもの申したりする。あくまでぼくの考えですが、シェイクスピアの戯曲は徹底してマンパワー。つまり、シェイクスピア劇の登場人物は舞台上で自己紹介をはじめたりする。自己紹介や状況説明を全部語ったりする。「ここは海だ」とか。目をつぶって聞いているだけでもその世界がありありと描けるようになっている。シェイクスピアが書いた言葉を、舞台上で体現するのはすべて俳優。マンパワー。時代的にも、シェイクスピアの時代は産業革命の前の、機械がない時代=「マックス手足の時代」。手と足を駆使して生きていた時代なんです。俳優という人間(マン)の力(パワー)をシェイクスピアは心底信じていたのだと思います。

言い換えると、人間にフォーカスがあたった時代。『じゃじゃ馬ならし』では、学問を身につけようとした男がビアンカを見た瞬間、恋に落ちる。ロミオもロザラインに恋していたのに、ジュリエットに会った瞬間恋に落ちる。嫉妬や欲求、権力欲とか、機械がやらないこと。人間の、人間による、人間のための芝居をシェイクスピアは書いた。人間についてとことん考えた人の、人間によるドラマなのです。

『冬物語』を少し読んでみましょう。リオンティーズという王様が妻のハーマイオニに、友だちのポリクシニーズの帰国を遅らせるように命令する。命令したのはリオンティーズなのに、いざポリクシニーズがハーマイオニの説得に応じると、リオンティーズは2人が恋仲になったんじゃないかと急に嫉妬する。妄想にかられる。その場面です。みなさん、嫉妬にかられてください。角をはやしながら読んでみましょう。リオンティーズというひとつの人格をつくってやってみましょう。

リオンティーズ

声をひそめてささやきあっても
なんでもないと言うのか? 頰と頰とをすり寄せても?
鼻をくっつけあっても? 唇を吸いあっても? 笑いかけて、
急にやめて、溜息をついても?――それこそまぎれもない
不貞のしるしだ――それに、足と足をからみあわせても?
(中略)それでも
なんでもないと言うのか? とすればこの世は、そして
この世にあるすべては、なんでもないのだ。大地をおおう
この大空もなんでもない、ボヘミアもなんでもない、
おれの妻もなんでもない、なにもかもなんでもないのだ、
もしこれがなんでもないのであれば。

小田島雄志訳『冬物語』第一場第二場より

リオンティーズはハーマイオニを裁判にかける。子どもを浜辺に捨てちゃう。最後に、すごいことが起きる。演劇的にしかありえない噓を最後にシェイクスピアはやるんです。小説でもやれるかもしれないけど、演劇でやるからこそ、感動マックスにいく仕掛けで収束させるんです。ぜひ『冬物語』を、観て、読んでください。

『リア王』にもそういうところがある。いちばん愛している三女のコーディリアは父への愛を言葉で伝えられなくて「nothing」というと、リア王が怒る。そしてどんどん狂って、こうなる。

リア

風よ、吹け、貴様の頰が裂けるまで! 吹け! 吹き荒れろ!
豪雨よ、竜巻よ、ほとばしれ!
そびえる塔を水没させ、風見の鶏を飲み込め!
稲妻よ、電光石火の硫黄の火、
柏の大木をつんざく落雷の先触れよ、
この白髪頭を焼き焦がせ! 天地を揺るがす雷よ
地球の丸い腹を真っ平らに叩きつぶせ!
大自然の鋳型を打ち壊し、
恩知らずな人間の種という種を
ただちに破壊しろ!

松岡和子訳『リア王』第三幕第二場より

「地球の丸い腹を真っ平らにたたきつぶせ」。すごいですよね。

もうひとつ、ぼくが役者をしていたときに『ヴェローナの紳士』の稽古をみて、この言葉を聞いたとき「これもシェイクスピアなんだ!」と思ったセリフを紹介します。

ヴァレンタイン

恋とは、うめき苦しんで
軽蔑を買い、胸しぼる溜息で冷たいまなざしをもらい、
眠れぬつらい二十夜で一瞬のむなしい快楽を得ることだ。
かりになんとか仕留めても狩りの獲物はくずばかり、
仕留めなければ骨折り損で泣きを見るだけだ。
要するに、知恵を使ってばかなまねをするか、
ばかなまねをして知恵をなくすか、どちらかさ。

小田島雄志訳『ヴェローナの二紳士』第一幕第一場より

シェイクスピアはロマンチックな恋のイメージがあると思うんですけど、これは、なんか、ビターだなあ。

シェイクスピアのことばを日常で使ってみてください。ぼくも辛いことがあったときなどに、「ああ、この固い、あまりに固い肉体が、溶けて崩れ、露と流れてくれぬものか」とハムレットになってか言ってみたりします。ぜひやってみてください(笑)。

見えないものに溢れるシェイクスピア

シェイクスピアの時代、最初にテキストを読むのは俳優でした。俳優たちのところに戯曲が届いて、それを教えてもらって稽古してお客さんの前で上演する。現代のぼくたちは本からも戯曲に出会えるけれど、当時は俳優に読んでもらうことで戯曲と出会ったんじゃないかと思います。見えないものに溢れているのがシェイクスピアの戯曲だと思っていて、それを想像するのが楽しいし、自分が躍動するようなイマジネーションにつながるのです。『ハムレット』で練習してみます。

さて、みなさんはシェイクスピア一座の俳優です。人気劇団です。これから2ヶ月後芝居をします。演目は『ハムレット』。じゃあ稽古しよう、という想定です。紙は貴重だし、今みたいに台本を読むのではなくて、もっと直接的な人間のコミュニケーションのなかからイメージが膨らんでいったのではなかったかと想像されます。さぁ、『ハムレット』のオープニングを作ります。(バナードーとフランシスコのセリフを二手にわかれて耳から覚える。互いのセリフは知らない。覚えてから、掛け合いをやってみる)

バナードー    誰だ。
フランシスコ なに、貴様こそ。動くな、名を名乗れ。
バナードー 国王万歳!
フランシスコ バナードーか。
バナードー そうだ。
フランシスコ よく来てくれた。時間厳守だな。
バナードー ちょうど十二時を打ったところだ。帰って休め、フランシスコ。
フランシスコ では、交替だ。助かるよ。ひどい寒さだ。
それにどうも気が滅入る。
バナードー 異常なしか。
フランシスコ 鼠一匹、出やしない。
バナードー じゃ、おやすみ。
ホレイシオとマーセラスに会ったら、
俺の相棒だ、急ぐように言ってくれ。 
河合祥一郎訳『ハムレット』第一幕第一場より

 

これがシェイクスピアのおもしろいところです。ちょっとわくわくしませんか? こんなセリフだったんだ、と発見しますね。そのときに、心が動く。この動いている心が大事で、それをまず味わって欲しい。シェイクスピアはライブですから。

こうやって稽古しているところに、シェイクスピアがやってきます。「『ハムレット』は、自分が何者かを考えるてもらう芝居にしたい。僕たちって何? 生きるって何? と観客にって考えてもらう。そんな芝居にしたいんだ」。そう言ったとします。「だから、ストレートに『誰だ』からはじめたんだ」と言うかもしれません。だから、最初のセリフは相手に向かって「何者だ!」という気持ちを強く持って言ってみてください。暗闇で相手が見えない。誰がいるかわからない、という感情を持ちながら。戯曲を読むときに、こういう感じを持つと、シェイクスピアはもっとおもしろい。つまり、ぼくが今しゃべって、みなさんに話しかけると反応がある。この応酬が人間です。そんな風に見てみると、文字の羅列に見えた戯曲もより、もっと楽しくなります。

『ハムレット』の戯曲を見て何か思うことありますか? そう、セリフが長い。そして、本の下の方が空白になっているところがありますね。下までぎっしり書いてあるところもある。これがシェイクスピアのおもしろいところで、下が空いているところは詩で書かれている部分で、韻文です。文章が下まであるところは散文。つまり、ふつうのおしゃべりです。詩と詩ではないところがどう使い分けられているか、考えてみてください。これがまたおもしろいです。途中で行が変わるのにも意味がこめられている。このあたりは次回以降、河合先生がお話ししてくださるでしょう。

世界は劇場。人はみな役者。

「この世界は劇場。生まれてくる人間たち、人はみな役者だ」。シェイクスピアは、追い詰められたマクベスにこのように言わせています。みなさんも人生を生きると同時に、人生を演じる役者だと思うことで、大変なときにちょっとがんばれたり、「まだ出番がきていないな」とか「まだ3幕だ」とか思えるかもしれない。この世界もひとつのステージだと思うことで救われることもあるかもしれない。そんな願いもあって、今日は演じていただきました。観るのも読むのもおもしろいけど、シェイクスピアは演じるのがおもしろい。たまにセリフを言ってみたりすることで、より豊かになれると思います。

シェイクスピアが所属していた劇場の名はグローブ座。もう一個の地球が劇場にあるという視点だったのでしょうか。では、『タイタス・アンドロニカス』をやってみたいと思います。「もっとも残酷で、もっとも美しい復讐劇」とぼくは呼んでいます。さぁ、ここはグローブ座だと思って、臨場感を体感してください(と、カクシンハンの、のぐち和美さんと真以美さん登場)。

「ローマ人よ」と呼びかけられたら「ローマ人」になったような気がしますよね。みなさん日本人なのに。

シェイクスピア作品では、人間の身体の中の深いところにある野性的なもの――殺すとか好きとか嫉妬とか、ずっと人間がもっているもの、文明で隠されているもの――それが発露するとぼくは思っています。シェイクスピアのいいところは、それが美しい言葉で問いかけられること。動物としての人間の野性的なところが、人間のつくった最も美しい言葉で提供される。しかも、それがみなさんの問題として語りかけられる。それがシェイクスピアの魅力だと思っています。

400年前のものが、今、そのときと同じ形で提示できる。しかも当時の観客の肌感覚と同じ状態でもって劇場で現代の僕らが体感できるのは、奇蹟のタイムカプセルのようなもの。どんな劇団が、どんな演出家が、芝居を立体化するか、それがシェイクスピアを観るときのおもしろさです。みなさんには、ひとりひとりのシェイクスピア観ができてくるでしょう。「これはないよ」とか「これはありだな」とか、それぞれの意見が出てくると思います。――シェイクスピアは多様な価値観を持ち込めるいいグラウンドだとぼくは思っています。演出家ピーター・ブルックの『なにもない空間』という本にも通じますが、なにもない空間に役者が出てきて想像力を喚起させることでシェイクスピアが現代によみがえるのです。

ぼくには、シェイクスピアがずっと走っている、猛スピードで走っているような感覚がある。それにどんな風に追いつくかを考えている。過去のものでなく、常に流動的に考えています。

今日は役者になってもらいました。次回4月の授業では「私ならこうやる」と演出家になって考えてもらいます。

(おわり)

受講生の感想

  • とにかく、とにかく面白くて、一言も聞き漏らしたくない、一場面も見逃したくない、残らず吸収したい、という気持ちで授業を受けていました。こんなに豊かな学びの場を作ってくださったことに感謝でいっぱいです。

  • 木村さんが、学術的、論理的な解説をする中にも、どうしても迸ってしまうシェイクスピアへの想いを体全体で浴びて、その熱量に圧倒されました。けれど決して押しつけがましくなく、むしろ心地よく、流れに身を任せてどこまで行けるのか、ワクワクが尽きない時間でした。

  • ここまでの人生で全く接点がなかったシェークスピアを、初めて読みました。面白いですね!あたりまえか。。 初回の授業で「みなさん今までに読んだ数を指で教えてください!」という質問に、糸井さんが力強く「1」と上げていたのが心強かったです。私だけじゃないと思います。
    授業を聞いていると演劇を見たくなります。あと、授業の切り口が毎回自由で、結構びっくりしています。